9月の第6回には、このブログをご覧になり、はじめて参加してくださった方がいらっしゃいました。

ありがたく、うれしいことでした。(S様、ご都合のよい折りには、またどうぞ!)

 

会の数日前に大きな台風が来ました。私の身の回りでも、今までに経験のない「自然の力」を感じさせる被害がありました。

皆さま、ご無事だったでしょうか?

 

さて、次回の「省察と瞑想の会」は、10月17日(木)10時〜12時に新百合21ホール「第2研修室」にて行われます。

皆様、ご予定ください。

会場にはまだ余裕がありますので、初めての方もどうぞお気軽にお越しください。

2019年5月16日 省察と瞑想の会 八木誠一先生講義内容(下)

 

 ここで旧約聖書の楽園喪失の神話ですが、創世記の初めのほうに出てくるどなたもご存じの神話です。正確に言うと二つあるんです。ちょっとずつ違うんです。まあ、一つとして考えてもいいんですが、ご承知だと思います。神様が人間を造ったと。アダム、すなわち土をこねて息を吹き込んだら生けるものになった。とありますけどね、それでアダムを眠らせてですね。アダムの肋骨を取ってそこから女性を造ったって。そういう神話があります。それで神様がアダムとエバを楽園において、何を食べてもいいけど、善悪を知る知識の実だけは食べちゃいけないと命令した。ところが蛇が、悪魔ですけどね、蛇がエバをたぶらかして、あれを食べると神様みたいになるから、そうなられちゃ神様が困るからいけないっていうんだ。おいしいし知恵がつくから、食べてみろと、で、エバが食べちゃった。それをアダムにとがめられて、アダムにも食べさせた。そしたら彼らは目が開かれて、裸だということに気が付いた。それでイチジクの葉で腰の周りを覆った。そこに神様が出てきて、名前を呼ぶが隠れちゃうんです。さてはあれを食べたなっていうんで、楽園を追放されるっていう話すなんですが、もちろんいろんな解釈があるんです。

 で、キリスト教の歴史の中では大体ですね、アダムとエバの罪はどこにあるか。食べてはいけないと言われたのに食べた、禁令を犯したという、そこにみられているんですね。それを原罪というんです。一番はっきりしたのは古代ではアウグスティヌスでしょうけど、新約聖書にもそう取れる箇所があります。必ずそう取れるかというと問題なんですけどね。つまり禁令を犯したところに罪を見ている、大体キリスト教では罪っていうのは神の戒めを破ることだと考えているから、そうなんですけども。新約聖書をよーく読んでみますとね、禁令を犯したのが罪だっていうんじゃないんで、そうじゃなくって、もっと根本的なところに罪を見ているんです。例えば、イエスにはパウロにも、言葉に支配されること自身がいけないんだというはっきりした認識がありますけども、その面は伝統的キリスト教では取り上げられなかった。僕はそれは新約聖書を理解するについて間違っていると思います。つまり神が与えた律法を守ればいい、それを犯すのが罪だと、そこに問題があるんで、そもそもそういう理解を破らなければいけないんだと。その面が疎かになっていると。

 それでその神話なんですけどね、そうじゃなくって、やっぱり実を食べたというところに問題がある。つまり善悪を知る知識ですね。それを獲得したという、そこに問題がある。

 じゃ善悪を知るってどういうことなのか。やっぱり、これは言葉の問題ですね。人間が言葉を語る自我になった。自我が言葉で善悪を認識するようになったと。それがそもそも人間の不幸の始まりであると。僕はそっちの方に重点を置いて考えたい。いけないと言ったのを破ったから罰せられるのではなくて、言葉を語る自我になってということが人間の不幸の始まりです。人間の栄光の始まりであるとともに、不幸の始まりでもあった。そうするとですね、言葉を語る存在になって、善悪とか損得とか、そういう区別をして、例えば利益だけを求めるようになったと。また、人間が自分の体を認識して、支配しようとするようになった。まあ、文化にはそういうところがどうしてもあるわけなんですけど。人間が自分自身を支配しようとするようになったと。そうするとさっき言ったように肉体が反抗するんですが、反抗の著しいのが性でしてね。自分自身をコントロールしようとすると、これまあ思春期にそういう経験をするわけなんですが、肉体の反抗に遭う、それで自我が負ける。そういう経験を繰り返すと肉体性が罪だと考えられてくる。「性」は大事なんです。これがなければ人間は途絶えちゃいますからね。人間が滅びちゃうから、非常に大事なんだけどね。しかしそれがなんか恥ずかしいことに感じられる。それで人間がそれがあたかも性などないかのごとく、隠したり支配したりする。しかしながら結局において負けているから、負けたんで余計恥を感じると、そういうことになって。これは自我と肉体との分裂の一つの著しい例だと思います。つまり性行為というのが単なる肉体の行為になっちゃって、自我が敗北する行為ということになっちゃっているから、恥ずべきものだと考えられてくるんでしょうね。そうじゃないんです、実は。これ身体の行為だ、そうすれば性はコミュニケーションの大事な形式だということが分かってきます。ところが文明国では大体性は恥ということになっています。昔のストア学派もそうだし、東洋でも特に儒教がそうだし、自分の意志、感情まで含めて意志コントロールで性を支配しようとして、そして多くの場合失敗して偽善に陥るわけですよ。本居宣長はそういうことを非難しています。本居宣長は身体性を重視したんじゃなくて、情ですね。人間の自然の情をとって、自然の情は大事なのに儒教はそれを曲げている。本居宣長はそのよりどころにしたのは『古事記』で、『古事記伝』っていうのを書いたんですけど、昔は日本人はそうじゃなかった。悲しければわあわあ泣き、出会えば交わって子供を産んだ。嬉しければ踊って、そういう自然の情を本居宣長は大事にした。情と身体性は違うから、宗教は本居宣長とは違ってきちゃいますけども、まあそういうのがあったのです。自我と肉体の分裂がなくなって、人間が身体になると「自然」が、戻ってくるんです。まあ、そういっても簡単ではありませんが。

 つまり、自我ってのは何だ、身体の一機能だ。つまり自覚的機能で自分は何をやっているのかを知っていてコントロールする。自覚的な一つの機能なんです。身体の一つの機能なんだというのと、自我が独立して肉体を支配するのとはまるで違います。身体という統一された一つの機能なんで、考えない瞑想、それの一つの大事な点は、人間が身体だということがだんだんとはっきりしてくるんです。自我が自分を支配しようとする、そういうことを止めることですね。人間が身体で、自我の一つの機能だということがだんだん見えてくる。

 これ、僕がよく使う比喩ですけど船に例えると自我というのは、操舵者、舵取りで、舵取りは船長の命令に従って舵をとっているのに、操舵者が船長を部屋に押し込めちゃって、自分勝手に船を動かそうとする。それで失敗している。船体というのが身体に働きます。身体性というのが自我に媒介する機能、自己と言ってますけど、それが船長。自我というのは操舵者なんだ。操舵者が船長を船室に押し込めちゃって、自分勝手に操って、失敗しているのが人間の姿です。

 で、今回この時間の中心というのは人間っていうのは自我じゃない。身体だということ。それ普通に考えても分かることなんですけどね。瞑想にはいろいろいいところがありますけどね。それをやると自分が自我じゃなくて身体だということが直感で分かるようになりますからね。で、瞑想というのを坐禅じゃなくて、ここでもやっているんで、桐蔭の生涯学習でもやってましたけども、ここでは皆さん全員ご存知ですよね。これは考えない方です。体を整えて、息を整えて、心を整えてといいますけども。姿勢を正して、特に特定の主題について考えるということをしないで。なるべくリラックスして、自我が自分自身を支配しようとするのを止める。これは将来にわたるプログラムについてもそうですけどね。こうしなきゃなんない、ああしなきゃなんない、ああしたい、こうしたい、というのを止ると。で、止めるとだんだん呼吸が意識にのぼってきますし、呼吸を整えるということはいいことなんで。で、どういうことかっていうと、呼吸ってのは意識しないでもやってますが、体の自然の行為ですよね。ただ、呼吸ってのは自覚でコントロールすることもできるんで。それで、過呼吸なんてのがありましてね。グループによっては過呼吸なんてのをやってですね、悟りの疑似体験をさせるなんてのもありますけどね。そうじゃなくて、体の自然と自我とを一致させる修練になります。自分は身体だと。身体だということはどういうことかっていうと身体の自然がある。身体の自然に自我を一致させる、それの一つの訓練になります。自我の営みと意識的な呼吸を一致させるというのは。一つはそういう意味がある。僕は非常に大事な訓練だと思っていますが。さっき言ったように身体だということがはっきりすると、人間はこの世界の一部だということ、この世界の支配者ではない。肉体の支配者でもない。自分は身体だ、この世界の一部だと。で、それが次の極だということにつながってくるんですけどね。

 

 実践ですが、瞑想にはいくつかあるんです。

 

瞑想1:言葉や思考なしの瞑想。

 これには身体感覚の回復ということがあると思うんです。つまり、自我を身体の一機能に戻すと。これは言葉でいうのは簡単だけど、実際にはそう簡単じゃない。そうやろうと思ってやってもダメなんで、自然にそうなるということなんですけれどもね。放棄を目的化すると自我が立っちゃうんでだめなんです。特定の方向に意識を集中することはしないで、むしろ身体の自然の営為を見つけて、それが働くようにもっていく。それが言葉を使わない瞑想の一つの大きな特徴だと思ってます。言葉と思考を放棄する。難しいんですけどね。そうすると感覚だけが残るんです。その場合、私が何かを感覚している状態では、対立が残っちゃうんで、それじゃダメなんです。そうじゃなくって、「何か」が「私に」見えるというと自我が出てきちゃうんで。そこのところは一種の修練なのかな。自然にね、自我の働きがなくなっていくというか、休止するというか。なくそうってのではなく、自然に無くなっていく。そうするといろんなことが起こってきますが、一つは身体感覚が回復されますね。言葉で言い表せば体が暖かいとか、血が巡ってるとか、心臓が鼓動しているとか。そういうことを含めてなんですけどね。自分は身体だ、生きているんだっていう感覚がはっきりしてきますから、それは基本として非常に必要なことだと思っているんだけど。そこからさらに進んで直接経験ていうことになりますけどもね。直接経験のなかで経験自体の方に注意を集中すると、感覚というのは自分が外のものを感覚するとか、外のものが自分の中にそのまま入ってくるっていうんじゃなくって、感覚ってのは自分の命の営みだ。自分自身の身体的営為の一部だというそういう面が見えてくる。そこで対象の方に注意を向けると、対象が私の中で感覚として現れるているんだという判断になる。いきなりそこまでゆけといっても無理かもしれないから、まずは身体の自然なんですよね。だから目が開いてて見えるというのも自然ですから。そこで私が何々を見るとか、何かが私に見えるとか、そういうふうに考えると私と対象が分かれちゃって、感覚自身が私自身のできごとだという面が薄れちゃう。消えちゃうから、そっちを生かそうと思ったら、言語化という方を離れるんですね。

 姿勢は背もたれに寄りかからないように。腰と下にだけに力を入れて。力抜くから足は少し開いて、頭は垂れないで背骨の上にのせる。頭を背骨全体の筋肉で支える。自我が自然に無くなるという。とにかく特定のことを考えたり、欲したり、認識したり操作したり、そうすることを止めちゃって、なるべく体の自然に帰ることを自覚する。

 目を閉じると身体性の面が強く、目を開けると直接経験の面が出る。「見える」(「見る」ではない)ということは自分の体の営為だということが段々とはっきりわかってくると。そのためにも、目を開けなきゃいけない。主客の直接経験だと目を開けた方がいいですよね。だけど自分が身体だとそれだけを感覚しようと思ったら閉じていてもいい。むしろ閉じた方がはっきりする。

 

――【瞑想実践タイム】――

約十分間

昨日は西の空に、きれいな三日月がにっこりと良い顔を見せていました。

9月に入りました。皆さまお元気でしょうか?

 

5月に行われた第4回の講義録を2回に分けて掲載します。

 

2019年5月16日 省察と瞑想の会 八木誠一先生講義内容(上)

 

 まずは今までの復習です。

 問題は「私は私である」という決まりきった、当たり前のようなことなんですが、実は非常に大きな問題があるということで、この問題を取り出す。

 どういうことかって言いますとね、「私は私である」って言葉で語られてますが、言葉を使うことの問題性ですね。それから、「私は私によって私である」と考えがちなんですが、実は私は「他者によって」私であるというということ。それから、私は自我であると考えられるが、確かにそうなんですが、そういうところはありますが、しかし私というものをよく考えてみると自我ではなく、身体だと。

 それから次に私っていうと個人ですね。個人というと自己決定的なバラバラな人間ということですが、私は「個」ではなく、「極」であると。あまり使わない言葉ですけども、磁石の南極と北極みたいにですね、両方ないと両方とも成り立たないという、つまり他者無しには自分であり得ないというそういうものです。僕は極といってますが、私は「自分自身で自分自身であり得る個」じゃなくて「極」だと。この点を実は頭で聞いてですね、あっそうかというんじゃなくって、体で納得していただきたいわけです。つまり、身に付けていただきたいわけですよね。で、その修練として今日も少しやりますけど瞑想ということがあるんです。瞑想には省察の面と坐禅のような両面があると言ってきました。

 言語使用の問題性についてはこれも詳しくお話したことですけども、言葉は意味を伝えます。ところが意味とは実は「通念」でしてね。言葉っていうものの特性は、事柄がそこになくっても、事柄について語ることができることで、だから意味が社会的に通用しているうちに、意味と現実との混同が起こってしまう。というよりも、意味の方が優先して、これが現実そのものだと思われてしまう。これは非常に大きな問題性です。実は語られた現実と現実そのものとは随分違う。違いの一つに一意的言語の問題がある。たとえば私は私であって私以外のなにものでもないという、そういうことになりがちなんですが、一般には、AはAであってA以外のなにものでもないと。さらにAは非Aではない。Aと非Aの間には第三者はないと。これを一意性といいます。ところが一意性っていうのは特定の時点で特定の観点からみたときだけ言えるんです。事実は時間がたつと変わりますし、同じものでも見方によって変わりますから。一意性というのは特定の時点、特定の観点からしか言えないんですが、それが往々にして忘れられています。のみならず、一意性というのは情報の生命ですから、情報は一意的でなんないといけないんで、そうすると一意性が成り立つ領域を求めて、言葉の領域が狭くなっていきます。主体と客体、自分と他者、あるいはこれとあれ、こことあそこ、今とかつて、そのように事柄が小さく分かれていきますので、一意性ということを重んじると、言葉が通用する範囲がどんどん細分化されていきます。これ、現実に起こっていることです。誰でも知っているんで、あまりにも細分化されているから、全体性を回復しなければいけないと言いますが、一体何故細分化が起こってくるのかというと、必ずしも明らかにされてないから、注意する必要があります。一意性の言語だけを使っていると全体性がなくなっちゃう。それから一意的言語は論理的言語なんですが、思考のカテゴリーってのがありましてね、例えば数ですけどね、数とか量とか、例えば一二三が客観的に存在するわけじゃないんで、我々は一二三と数える、量を決める。これ人間の知性に、特に自我の知性に、いわば生まれながら与えられている情報処理の能力であるといっていいんだと思います。数とか量とかいう「カテゴリー」が情報処理のための手段なのに、現実そのものの性質だと思われまして。カテゴリーには個と普遍とか、原因と結果、目的と手段、等々ありますけども、それが現実そのものの秩序だと考えられて、なんでもかんでも因果関係で説明しようとする。これは間違いでしてね、因果関係ってのは一意性の言葉が妥当する範囲でしか通用しないんで、実は複雑な事態では因果ではなく、変換なんです。しかし世界を分断して目的と手段、原因と結果とかに序列化してしまう。そうすることによって、現実そのもの、人間関係もそうですけども、それを曲げてしまうということです。これが気づかれていないんですけど、事実それをやっている。例えば自然も材料、せいぜい環境としか考えられていないんで、人間が自然の一部だなんてことはどっか行っちゃっているんです。それが自然破壊の大きな原因になっているんです。もちろんそれだけでないんですけど、それが一つの大きな原因になっていると思います。現実を個別化して序列化しちゃうと。何のためかというと現実を利用すると、あるいは支配するためですね。そもそも一意性の言語というのが物事の性質を認識して利用するのに都合がいいんです。支配するためにも都合がいいんです。こうしろ、他のことをするな、という場合は支配のために便利な言葉なので、この言葉が優越すると利用と支配が目立ってきまして、それが自然と人間の破壊につながっていく。言語使用にはこういう問題性があるんです。それを自分でよく考えて身に付けてほしい。

 

 特に、「私は私である」という場合に、私は私によって私であると考えがちなんですが、よく考えてみると私を構成するものは、すべて他者起源だと。私は私でないものによって私だ。私という存在にしたって、両親の合作ですからね。その前にはなかったんだから。私は私によって私なんだなんてとんでもない話だ。育つについてもお母さんのお腹の中にいるときはお母さんから栄養物をもらって、それを自分の部分に変換(メタボラ)しているんです。元来はお母さんの一部分であったものが自分の部分に変換させる。生まれた後でもそうなんです。食べたり飲んだりしますけども、全部自分でない外のものを取り込んで、自分の一部に変換してるわけです。これメタボラ(新陳代謝)です。新陳代謝を広い意味で解釈するとそうことになる。私は私でないものによって私である。これがはっきり頭に入っていると、人間と人間との関係の把握の仕方、あるいは人間と自然の把握の仕方が変わってくる。

さて私の中に他者起源のものばかりがあるわけなんですが、他者起源のものが自分の一部になっている。これを僕はフロント構造といっています。事物にはですね、いわば波みたいなフロントがあるんで、広がりがあるわけなんです。その他者の広がりを自分の存在の一部に変換する、あるいは自分の存在条件にするという、そういうことがあってお互いに自分が自分として成り立つわけです。食べるなんていうときはですね、これは他者そのものを破壊して自分の一部にしちゃうから違うんですけど。そうでない場合は他者のフロントを自分の一部に変換することで、共生が成り立つ。

 感覚もそうなんですが、感覚ってのは視覚・聴覚、例えば視覚ですが、「私」が外のを見ているといつも理解してますけども、見えるということは、それ私自身の命の営みなんで、見えているものは私の一部なんで、これは実感することができますけどね。音なんてのは割と分かりやすいんですけどね。音は自分の体の中にしかありませんから。実は感覚一般についてそうなんです。私自身の生の営為だ。私自身の一部なんだけど、他者起源だ。感覚には自分性と他者性の両面がある。感覚ってそういうもんです。言葉も自分で作ったんじゃない、習ったんです。人が作った言葉を覚えて、自分の言葉にして使っている。それから知識とか文化と行動様式とか、つまり、生まれてから学ぶことすべてについてそうなんです。これみんなですね、他者から学んで自分の一部に変換したものなんです。つまりこれはっきりと認識すれば私が私によって私であるというのは大きな間違いで、私は私でないものによって私である。もっと詳しくいうと、私を構成するものはすべて他者起源だと。すべてそのままじゃないけどね。変換されてますけども、起源を尋ねれば他者起源だと。そうすると人間が自然の一部であるということが、あるいは人間が他の人間を支配したり、利用したりしてはいけないということが、頭の中でじゃなくて分かってくるはずです。

それで広い意味でのメタボラ、つまり「私」は自分の外にあるもの、他者のフロントを自分の一部に変換していると。これ、呼吸についても飲食についても、あるいは衣食住についてもそうだ。特に体について考えてみますとね。自分の体、外からいろんなものを取り入れて、自分の体に変換するという営みです。これはものすごく複雑というか、精巧というか、学問が進めば進むほど超精巧なんで、驚くほどです。そうすると私はそれぞれが他者のフロントを取り込んで、自分のものにしてまとめる。僕はその全体を統合といっていますけど、統合作用ってのがあるわけで、これ命ともいわれるしね、命の営みもといわれてますが内容は統合作用です、それがあると。それがそれぞれ私を私にしているんだと。そういう相互関係の全体があるんだと。それが自覚が深まって現れてきます。これが根本になります。これを頭で知っているだけじゃなくて身に付けて頂きたい。と、こう思っているわけです。

 

 今までは復習でしたが、今回なんですが、「私」と考えられているものは自我なんで、私とはふつう自我のことです。つまり、私は何をやっているか意識しながらそれをやっている当のものです。だからうまくいっているかを見ながらコントロールしている。そういうもんです。だから私といったら自我というのが普通なんで、もちろん間違いでないんですが、実は自我じゃない、身体だ。私ってものは身体だ。もうちょっと極端に言うとですね、この身体が私なんだ。そういうことです。こういう感じ方、感覚自体を身に付けていただきたいので。

今日の主題、身体には心と体の両面があるとありますが、まず心があってそれとは別に体があって一つになってというそういう意味ではありません。身体という統一体には心の面と体の面と両方があるということ。当たり前じゃないかと思われそうなんですが、実はそうじゃない。私というのは身体で、しかも人間というのは人格としての身体、身体としての人格という意味がありますが、この身体が私で同時に人格である面がありますから、それは次に回します。

 今日のところは人間は身体で、私は身体で、この身体が私だと。考えてみれば当たり前じゃないかと、しかしなかなか当たり前じゃない。では、どうして私はまずは自我だということになるのか。身体という自覚がないのかと理由はいろいろありますけど、やっぱり一つは言葉を使っているからですよね。言葉を使っているのは自我ですから。言葉を使うんで自我が自我になるとってもいいくらいでしてね。つまり言葉を使って私が考える。考えるとは認識する、認知する、判断する、推理をする、そういうことでしてね。私はこれから何をしようかと考える。今日一日、一週間、一年、一生に渡ってプログラムを設定して実現しようとしている。そうしていると私って自我になっている。デカルトが「我思う、ゆえに我あり」というテーゼを立てた。デカルト的私ってのは自我です。自我だからデカルトは身体と自我を分けっちゃった。身体と精神ですけどもね。分けちゃった。精神はレース・コギタンスres cogitans「考えるもの」で、それから身体というものは延長があるものres extensa(レース・エクステンサ)で、その二つは実体だってお互いに関係性がない。一か所でくっついているといったもんだからデカルトの後の問題は、身体、体と自我がどうして関わりあっているのかということが哲学の大きな問題になって、その後哲学者たち一生懸命考えたわけなんですけど、よくよく考えてみればおかしい話なんです。無理して分けたから、後からくっつかなくなったわけなんでしてね。そうじゃないんです。つまり、考える私が私自身だという把握の仕方からすると、私は自我なんで、その自我が自分の身体を支配する、管理する、そういう分離と支配の構図ができてきます。例えば考える私を私というと、私と対象とが別れてきて、どういうふうになるかっていうと、私が対象を感覚するという。私が対象を知る。私が対象を操作する、利用する、こういう構図ができてきます。私の「体」も対象化されてしまう。ほとんど当たり前のようになっちゃっているけど。実はこれが基本的な根本的な事じゃないんで。これ「一」を分けちゃって、主体が客体を支配するというふうになっている。これは考えない瞑想でも、かなりの程度分かってくることができると思います。つまり、私が自我だと考えると自分と他者との対立が成り立ってくる。「一」が失われて、分断と対立が成り立ってくる。それだけじゃなくって自分と自分が対立してしまう。つまり、私が私の体を感覚する、認識する、操作する、支配する。こういう構造がでてきます。つまり、私を自我と考えると、自我と体が分裂して、それで自我が身体を支配しようとする結果、身体が肉体に変わっちゃう。肉体に変わって自我に反抗するという、こういう形が出てきます。例えば欲望として反抗したりして、あるいは「自分じゃ欲しないのに」からだが年をとって死んじまうというかたちでですね、反抗したりそういうことになる。これも詳しく見てみると私と身体と分離すると身体が肉体になって、自分と対立してくる。そうすると、私が体を動かすというそういう感覚が成り立ってきます。私が動くんじゃない、私が私(からだ)を動かすという。それはもちろん自我があって、私が私(からだ)を動かすというと、自我が対立して自我が体を支配する。その結果身体が肉体になっている。自分に反抗するという構造になります。

 

 瞑想もいいんですけどもね、たとえば指を動かした場合、私が指を動かすというふうに感じるか指が動くと感じるか。それとも体が動くと感じるか。かなり大きな分岐点です。指でなくてもいいんですけどね。私が動かすと感じるか、それとも体が動いていると感じるか。もちろん何を考えなくて体が勝手に動いていると感じるとそういう意味じゃなくて。私とからだが対立しないで一つになっている。そういうふうに感じられるかどうか。これが人間が人間になってからの一つの大きな問題になっているんです。私が自分の体を認識して管理して、支配する。いろいろ無理をする、その結果肉体の反抗に出会うという。これが非常に多いんです。ちょっと考えると、いろいろ気付くことがあると思いますけどね。体が統一体じゃなくって自我と分かれて反抗する。つまり自我が無理をすると肉体の方が反抗する。だから動くことに習熟すると、こういうことはなくなってくるみたいです。まあ、僕はそこまでやったことないけども、例えば体操なんてのも熟達してくると、自分が自分を動かすってことじゃないんで、ある意味でですね、自然に動いちゃう、そういうところがあるみたいです。で、下手な時は一生懸命自分で体を動かすわけですよ。最初はどうしても自分が自分を動かす形なんですよね。それだとどうしてもぎくしゃくしてできないんですね。で、ある技ができるというのは体が動いちゃうってことなんで、それが馴れるということです。技術一般がそうなんですけどね、ピアノ弾くとか書を書くとかにもそういうところがあるらしいですよ。だから、「私が私を」という構図はまだ未熟だということになるし、いろいろ無理をしているということです。

残暑お見舞い申し上げます。

朝方歩いていると、大きなクマゼミの声が降ってきたので、声の主を探すと、電線にとまって黒いお尻を大きく振り動かしながら鳴いていました。昔はこの辺りにクマゼミはいなかったのに…。

 

さて、「省察と瞑想の会」も夏休みで8月はありません。

およそ1か月後の9月12日(木)10時〜12時に新百合21ホール「第一研修室」にて行われます。

皆様、ご予定ください。

 

まだまだ暑いです。どうぞお元気に過ごされますように!

 

2019年4月18日 省察と瞑想の会 八木誠一先生講義内容(下)

 

 どこが違うか、特に近代以来人間は個と考えられています。そうすると社会というのは個と個がお互いに自己主張して喧嘩するから、それじゃ困るから、個と個が契約をして仲良く共同生活しましょう、契約をして、合意に基づいて社会生活をするんだ。これが近代以来の社会の暗黙の前提になっていましてね、暗黙だけじゃない場合もありますけど。社会というのは個同士が契約によって合意のうえに作ったもんだと。個の集合だと。個の社会だと。そういう立場から現代社会は作られてましてね。そうするといろんな問題が出てくるわけなんですけど。それは別にして。

 キリスト教でいう共同体というのは個が契約によって社会を作るんじゃなくって、キリストの体として極のまとまりだと。で、どういうことかというと人間の体ですね。これ、パウロが言ってますけども、いろいろな部分があってですね、それぞれの機能があってですね、しかし、お互いがお互いを前提しあって、一つの全体として成り立っているんだと。パウロの場合はに手、足、目とか耳。現代人の我々には神経系とか消化器とか循環器とか生殖器とかそういういろいろな機能をもった部分を知ってまして、それぞれが自分の機能を果たしてですね。お互い同士必要なものを供給しあうことで、全体として成り立っている。そこで、非常に不思議なことはまとめる力なんですよね。やっぱりそこに一方では極にして分化させて、他方では全体をまとめる。受精卵が分裂していきます。分裂していくと機能集団の方が分かれてくる。分裂したからお互い関わりあって、一つのまとまりを作っていくわけでしてね。一つのものが分化しながら、まとまっていくという、こういう構造と。それから機械みたいにですね。それぞれの部分が一方的な機能しかもっていない、これ、明らかに違うんです。

 それでどちらかというと僕は現実の構造ってのは極のまとまりだと考えています。これは全体なんです。全体としてみると目的がないんです。機械と一番違うのは、機械というのはいくら複雑でも一つの目的がありましてね。それで部分のはたらきというのは一方的なんです。簡単にいうと、車なら車を考えまして、車ってのは車体を動かすためにあるんです。車体が車を動かすためにあるんじゃない。それからエンジンと車体の関係とか、ハンドルとか、それぞれと全体の関係を考えてもそうなんで。一方的なんです。AはBのためで、BはAのためではない。一方的なんです。人間の場合は機能集団になってますね。特別な機能があって、学校とか会社とか病院とか役所とか特別の機能をもつ機能集団、そういうのがあります。しかし、社会全体、人間全体を考えると、人間全体が何のためにあるのかというのでなくって、むしろ、お互いに他のためになっている極の集合という形に近いんです。中の一部分が主人になって他方を支配するのはいけないんだ。こういうことは桐蔭の生涯学習で繰り返し申してきましたから、皆さんご存知のことだと思うんです。

 問題は単なる自我ですよね。私は私自身によって私以外のなにものでもない私だ、そういっている。だから一意的な言葉でいっている。それを解消するためにはどうしたらいいかが実践への道になるんで。その一つが省察と瞑想になるんだけど、省察っていうのは今言ったようなそういう面のことです。それで問題は自我と一意的な言葉との結びつきをどうしたら解くことができるのかということです。

 

 直接経験といってますけども。言葉と自我の結びつきがなくなる、それは言葉のない世界だから、自我も滅びる。それが現前するというか、言葉と自我が滅びた世界が現前して、それで現実は元来こういうもんかということが分かるという。直接経験とは何かというと、これは言葉じゃないから、言葉で言ったってしょうがないんですけどね。キリスト教の場合だったら聖書読むとか、教会に行くとか。言葉と自我の結びつきが破れなきゃならないんでね。一つの道は言葉のない感覚が現前する。直接経験といいますけどね。経験といいますとね、どうしても私が何かを経験するという、そういう構造になっているんです。経験という言葉自体「わたくし」が「何かを」経験する。そういう構造の中で経験が起こってくるんで、経験というと対象ができちゃうんでね。しかし感覚というと経験以前である。経験というと言葉とか知識が問題になるけど、感覚というとそれ以前だ。だから感覚といった方がいいんだけど、感覚というと、やっぱり私が何かを感じるという図式になりやすいんです。だけど僕が思うには経験というより感覚といった方が近い。それがどういうことなのかっていうと、実践というのはね、言葉で聞いただけじゃだめなのでね。ですから出来たら自分で経験していただきたい。ただし、経験というより感覚といった方がいい。

 感覚って何ですか。自分が他者を感じる。そういうふうにみえるけども、そういう構造を取っ払ってみるとそうじゃないんだ。一番分かりやすいのは痛みですよ。痛みっていう感覚があるでしょ。これ自分の痛みなんですよ。痛みってのは痛みの感覚そのものです。これはどこがどうなって痛いという判断をする前の話。痛みが一番分かりやすいと思うのが、自分の感覚なんです。だけど他者起源なんです。自我の外に由来しているんだから。そこなんですよ。自分のことなんだけど、他者に由来している。痛みが一番分かり易い。その次が、味覚とか、嗅覚とか触覚とか。たとえば甘いっていうのは対象の性質じゃなくって、舌の感覚なんで、これは自分の体のことなんだ。だけどそれは他者に由来するということ。匂いもわりとそうですよね。触るというのもそうなんですが、生涯学習でこうやってごらんなさいと言ったことがある。何かに手で触れる。動かさないで目つぶってじいっとしている。そうすると感覚がありますよね。何の感覚かというと指自身の感覚、つまり熱が奪われていく感覚と押されているという感覚。自分でよーく心を静めて納得できるまでやってください。今度、動かします。何を感じるかというと対象(紙、時計、机など)、動かすと他者を感じる。じいーとしていると、指自身の感覚。感覚ってそういうもんなんです。だいたい動くと他者性が分かるんです。他者性が前に出てくる。動かないでいると、自分自身の感覚。だから感覚ってのは自分自身の感覚の出来事であって、しかも他者に由来する。温度感覚もわりと掴みやすいかもね。お風呂に入ってじーとしていると体があったまってくるという感覚。体を揺らすと水を感じる。だけど同じ感覚ですから。だから感覚というのを手掛かりにすると自分というものが自分自身のことでありながら他者に由来する、そういう理解の窓口になる。何故、痛いとか、匂いとかが分かりやすいかというと、目で見た場合、「何を」というのが最初に意識される。見るというと「何を」見る。言葉が感覚と密接に結びついているから。だから、見るっていう場合、私が対象を見るという構造が固定しちゃう。そっちの方ばかりが正面に出てくる。「見る」ときに今言った構造を実感するっていうのは非常に難しいんだけども、しかし実際できるんです。そっちの方がもとなんです。

 

 坐禅をするとき、覚めた意識で今言ったことになる。私が何をという構造の中で私が人とか机とかを見ているという意識を捨てちゃう、それが難しい。それが一つの修練、訓練だと思う。これやれって言ったってできるものではないから、自分で納得するしかしようがないんだけど。それが可能なはずだというのは、記憶像というのがありますよね。記憶像を思い起すとね、視覚像なんです。思い出しているものが今ここにあるんじゃないから。それは思い出した自分自身の意識現象であって、しかもそれは他者に由来している。それはわりと分かりやすい。思い出すというのは、あんまりはっきり思い出さないから困るんだけど。もう一つは残像というのがあります。目をつぶると残像というのがあります。すぐ消えないで残っている。残像っていうのを考えると残像というのは明らかに視覚なんです。僕自身の感覚だけど、それは外部に由来している。それはわりとはっきりしている。だから記憶像とか残像とかは手掛かりになって、視覚にもそういうことがあるということが分かるんだけども、それは自分で実際やってください。何であるとか何を意味するとか、そういうことをおいて、見ているのは私だとそれも忘れっちゃって。しかもぼんやり見ているとただぼんやりしているだけだから困るんだけど。そこも難しいんだけど。やればできます。他の感覚ですよね。痛みだとか、触覚だとか、嗅覚だとか、味覚だとか、そっちの方が分かりやすい方から順々にやっていった方ができるかもしれない。一番近いのがイキです。聴覚というのはわりとね、音ってのは自分の中にあるものだということははっきりしている。音は自分の中にしかないんで、これは僕の体の出来事です。意識現象といってもいいけどね。体の出来事でしかも他者由来。何を言いたいかというと、私が私であって私以外のなにものでもないと思ってたら、よくよく考えてみたら、私を構成しているものはすべて私自身のものだけど他者に由来しているという実感です。それが非常に基本的だと僕は思っている。

 別の言い方ですとね、私が何かを見ているという構造じゃなくて、見えているという事実、何がではなく、見えている。見えてるってとこから、聞こえている、感じられている、それが私なんだ。私があって他者があって私が他者を見ているんじゃなくって、それはセカンダリーなんで、二次的な構造付け、図式であって、一番もとはそうじゃない。言葉でいえば、見えている、聞こえている、感じられるとか。それが私なんだという気付き。私と感覚を切っちゃうじゃなくて、見えているのが私なんだと。私というものが私自身でありながら、外部に由来するということが、実感的に分かってきます。木とか山とか自然物の方がやりやすいと思いますけどね。普通ね、私が何かを見ているという構造で考えている。日常社会生活の言語でコミュニケーションでそうなっちゃったんですけどね、その元に帰るとそうでないんだ。私があって、対象があって私が対象を見ているじゃなくって、自然に見えてる、聞こえてる、それが私なんだ。

 

 感覚は身体の反応も起こす。聞こえているものに対する僕自身の反応です。味といったら味に対する例えば苦いのが嫌だと自然の反応があるんで、誰にでもあるものです。聞こえているのに対する身体的反応がある。感覚には反応が結びつく。ただ、感覚と反応にはいろんな面があって、それはもちろん、いいんですけど。感覚には反応がつきものです。

 

 ところで、感覚や経験を言葉にしちゃうとどうしても私が何か経験するとか、私が何かを見るという構造になっちゃう。それで言語化を捨てちゃうという話です。それは原初的なものを恢復するためです。だから経験とか感覚という言葉も使えないんだけど、ただ黙っているわけにもいかないんです。

 

 感覚を手掛かりにするのが分かりやすいのですが、新陳代謝でもいいんですよ。僕の体は僕が自分の中から作り出したものではない。みんな外から来たものを、自分の体の一部に変換したもんだ。そういうことでもいいんです。知的な反省ですけどね。ただしその場合には、体を作る作用、外から取り込んだものを分解して、自分の一部に変換する作用というのが大事で、それに気気付くことが問題なんですが、これは次回にお話しします。

今言った感覚の面で考えると、わりと捉えやすいんじゃないか。つまり、自分とは何か、私があって他者があって私が他者と関わるとか、見るとかいうんじゃなくって。まず、言葉にすれば見えている、ただ対象が自分なんだ。見えている事実があって、それで、それに気がついて、見えているのが私なんだ。それからもう一歩進むと私が何かを見ている。そういう構造がある。

じゃあ、見えているのは何か、それはいろいろある。普通日常経験はそこからいっている。私が桜を見るという場面で言語生活を営んでいる。そこに固定されちゃうから。それを破んなくちゃいけないということ。私は私自身によって私なんだという「我(が)」が壊れないで残っているから、そういう我をぶっ壊すために、普通の経験の前に遡らなければならない。そこからもちろん掘り下げていかなければならないんで、人間と人間との関わり、それから超越との関わり。そういう方へ進まないと。そうでないと「省察と瞑想の会」になりません。身体をまとめる命の働き、それの自覚からもっと先にすすんでいくんですけども。まずは今言った分かりやすいところから始めるんです。

 問題は私は私であることをぶっ壊すことであって、それだけではないですけどね。とりあえずそういうことです。私の体を作っているのは何一つ自分で作り出したものではない。それをはっきりさせるのも一つの道だと思います。何にもない、どこをとっても外から来たものを変換したものだ。そういう作用がある。それに気が付く。すると自分が生かされているということがはっきり出てくる。自分が自分であるということは他者によって自分が自分だということの気付きであること。他者によって生かされていると。他者といっても、平面的な他者と上下の他者と両方ある。

まあいくら、口で言ったってダメです。だけど、こういうふうに考えてゆくと比較的こういう経験に辿り着けるのではないかということを言っているんで。


たいへんお待たせしました!

4月に行われた第3回の講義録を2回に分けて掲載します。

2019年4月18日 省察と瞑想の会 八木誠一先生講義内容(上)

 

 瞑想って、昔から日本にある言葉じゃなくてラテン語でメディタチオ、英語でmeditation、元来の意味は省察ということです。例えばデカルトの主著に『省察』というのがあります。メディタチオーネス、これ彼の哲学そのものなんですよ。「我思う 故に我あり」に辿り着くまでの思索を書いた、それをメディタチオというんです。自己省察ですね。

 しかし、それだけでなくて、メディタチオというと、考える省察と考えない省察があるんですよね。今言った方は考える方ですけども、静かに一人で自分を省察すると、自覚を深めていく、考えながらやる。考えない方の代表が坐禅ですが、禅というのは(パーリ語で)ジャーナですよね、静かに慮る、こっちの方は考えないんです。尤も考えないといっても臨済宗の方は公案というのがありましてね。老師が弟子に公案を与えると、それを悪戦苦闘するんですけども、坐禅を組む時には考えないですよね、だから両方あるわけで、私が考えているのは両方とも必要なんだ。考えないでただ座っている代表は、道元の只管打座ですけども、そうするとどういうことになるか、これ昔から経験的に分かっているんでしょうね。何をしようとも意図しないでね、静かに坐禅を組んで座っていると我執が自然にほぐれていくわけでありまして、まあ、それを狙っているというか、目指しているというか、それで目に見えない現実に目が開かれることなんですが、だから瞑想というと考えることと考えないことがあるんで、今言いましたように、私は両方必要だと思っているんです。それで解決する問題の中心なんですけどキリスト教では罪、仏教じゃ煩悩といってますが、いずれにしても中心にあるのは「我(が)」でしてね。

じゃ「我」っていうのはどういうことか、まあいろいろ考え方があるでしょうけども、突き詰めていうと、「私は私である」という自分理解です。これは仏教でも広くいわれてましてね、私が私である、そこが問題なんだ。私が私なんだって全く当たり前の話じゃないか、その当たり前のところに問題があるんで。

 私は私であるっていう、これはヨーロッパ哲学の中心でしてね、デカルト以来これがあるし、特にフィヒテの知識学の根本命題は「私は私である」ということで、これが哲学の根本命題で、でも、そこに問題があるんだ。じゃあどういう問題か、何が結びついているか。私が私であるってまず言葉ですよね。言葉が使われている。それが一つ。二番目に言葉といってもこの前から説明している一意的言語ですね。AはAであってA以外の何ものでもない。一意的言語で言われている。三、「わたし」です。私が私を立てているといいますか、自分で自分を立てる、規定する。その三つの結びつき。これは非常に強い結びつきです、しかも普段は気付かれないようなものですけどもね、これをほぐしていく一つの方法が、とにかくガタガタ言わないで黙って座れという、キチンとした形で座れという。しかしいろいろのことを考えるということがあって、公案禅では考えます。それから省察といった場合もですね、やはり私が私であるという、言語と自我の結びつきですよね。これをめぐる場合が多いんです。大体自我というのは言葉を語る自我がありまして、言葉を語らない自我というものは考えられません。

 じゃあ私が私であるって何をいっているのか。この場合私ってのは普通主体ですよね。普通私っていっている場合、自覚的な自我です。自己意識的な自我で、私が何をやっているか知っていてそれをやっている。で、何をするかというといつも自分の前にいくつかの可能性があるんで、それを選んでいる。そういう自我なんですが、この自我に問題があると。その問題というのは第一に「わたし」というのが自我、私が私であるといっている述語の私って何のことか。これ全くの同義反復でなければ、自分で理解している私、自分で思い描いている私、自分でイメージしている私、私はこれこれこういうもんであって、こういうものになりたいと、それを含んだ私。私が私であるといった場合、主語の私は自我ですね。述語の私というのは自分のイメージでしょう。僕はこの自我のことを単なる自我といっています。

 それで私は私であると言った場合の私、自我といいますけど、その私って普通の言葉でいうと個ですね。個ってなんかというとこれ、なかなか厄介なんですが、他から区別できるものです。普通特定の内容と形を持っていて、何ほどか持続していると。そして、多くの場合、一つ二つと数えられる、あるいは単位として機能している。大体そういうものです。ただ、個って何を個と考えるかは、何について語るかによって違うんです。一つ一つの大学は個と考えられるわけで、だけどキャンパスの中に入ってみると、建物がいくつかあって、この建物が個一つ、二つ、建物の中に部屋があって一つ二つ………。こういう具合に何について語るかによって、何を個とするかが違ってくる。まあ、個というふうに一般的にいった場合、まず他から区別できるってのが第一ですね。だから特定の形と内容をもって、一つ、二つと数えられる。私が私であるといった場合の私は個ですね。私は私であって私以外のなにものでもないという、そういう個的な自我が私は私だといっている。これが罪とか煩悩とか一番根本にある「( ) なんだ。だからそれを何とか滅ぼすというか、結びつきをときはなすことをしなきゃならぬ。それで一意性の言語については今までかなりお話してきましたから、今改めてお話しすることはありませんけど。

 簡単に繰り返しますと言葉、非常に便利なもんで言葉があるから人間は文化を作ったんですけれど、でも言葉を使うについて問題があると。つまり言葉というものは現に物がそこになくってもそれについて語ることができる。犬なら犬について犬がここにいなくても語ることができる。そういうふうに語っているうちに言葉が実物の代わりになっている。代わりになるどころか実際上は言葉の意味、語られていること、これが現実そのものとして通用するようになってしまう。現実というのは自分の外にあって、自分に働きかけ、自分を変えるものだと言いましたけれども、言葉が事実上の現実になって、しかもそれに気づかれていない。これが一番大きい問題の一つだと思います。我々が日常生活で言葉を現実として、概念にせよ、意味にせよ、言葉を現実として通用させている。それは物の代わりにお金が通用しているのとよく似ている。

 それから、一意性の言葉にも問題がある。AがAであってA以外のなにものでもないといった場合にコメントが付きましてね。同一時点、同一観点からっていうんで、特定の時点で特定の観点から言えるんですが、これが普通失われてましてね、何時何処でも、一意的なものとして通用するということになっちゃって、そうするとどうなるのか。そもそも言葉ってのは一意的でなければいけないので、情報ということを言いましてね、情報社会では情報の内容ってのは一意的でなければいけない。一意性が非常に必要ですからそれが強調されると、言葉は一意性が成り立つ領域を求めて現実を分断していくわけですよね。全体について一意性について語るわけにはいきませんから。一意的なものが通用する領域を分けて、そうすると主体と客体とかですね、私とあなたとか、個と社会とかこことあそこ、かつてと今、というふうに分かれて、日常生活においてもいろんな領域ですよね、自分たちの言葉が通用する領域が立てられていく。際限なく分断されていって、「一」が失われる。一意性の言葉にはそういう問題があります。それもあんまり自覚されていないんで、これもはっきり自覚にもたらさなければいけない。

 言葉、特にその一意性は現実を分断してしまうわけですけど、ただばらばらになっただけではしようがないから、やっぱりそれを新しく組み立てるわけで、それも一意性が通用する仕方で組み立てます。どういうふうに分けるかといいますと、実体、性質、作用、個と普遍、数、形、大と小、これは数学的なことですけどもね、特に問題なのは原因と結果、目的と手段。そういうふうに分けて結びます。そういう仕方で現実を再構成していく、そうするとどうなるか。これもこの前簡単に言ったと思いますけど、例えば原因と結果、そういう系列で現実を結びつける。それ、ひっくり返すと、目的と手段になります。こういう結果をもたらすにはこうすればいいんだと。そうするとどうなるかというと、これ、現実を認識して変えて利用するのに非常に都合がいい言葉です。現実ってこういう性質のもんだ。で、我々が望ましい現実を手に入れるためこうすればいい。原因と結果を利用して目的と手段をひっくり返して、大体社会なんていうものは単純な因果論では処理できないのに、そうやろうとする。

 

 つまり一意的言語というのは物を利用するため、これに非常に都合がいい言語だ。それだけでなくてね、実践的な言語がありましてね。こうしなさいというのも一意的言語でなきゃいけないので、でなきゃ、何していいのか分かりませんから。こうしなさいという情報、これは命令と取っても、規範と取ってもいいですしね。法とか、倫理とか、その他約束事とかいろいろありますが、こうしなさいと一意的に言う。これは何のための便利かというと、要するに命令と服従ですよ。支配と服従といってもいいし、命令と服従といってもいい。秩序を作るために非常に都合のいい言葉なんです。ただ、こうやんなさいといってもいろんなやり方がありますから、それで法律とか規約とか約束、そういうものは極力曖昧さがない。一意的な仕方で語られてます。これは秩序を作って人間を支配するために都合がいい。要するに一意的言語の特徴といいますと、もちろん認識の場合一意性は大事なんですが、これ利用と支配のために極めて都合がいいんで。ですから、近代以降の文明を見てますとね。一意的な言語が中心になってます。

そういうふうな言葉、一意的な言語を使って、私は私であって私以外のなにものでもない。個が言い出すとそこに問題がある。そういう個は主体として他者を利用、支配しようとする。あるいは自分自身を自分に思うがままにしようとするんです。そういうことが出てくる。これあまりにも大雑把な言い方ですけど。

ここで述べたような形で現実を再構成すると、現実自体の構造と違ってきちゃうんです。自然も人間も利用され支配されるためにあるんじゃない。だから、そこで現実との軋轢が起こる。そういう意味では逆に現実を無視して自分たちの言葉として使われるといえるでしょうね。

 

 この会を始めるにあたって知識が中心ではないと、むしろ実践のほうに向かうと申しましたけども、段々そっちの方に向かっていく必要があるんですが。

 で、我々の問題ですが、私が私であると個的な自我、単なる自我が言っている、そこに問題がある。それは現実を歪めている、また自分自身を歪めている。もろもろの災害を作った。文明も作りましたけど。

 じゃあ、どうしたらいいんだ。そこで省察と瞑想というのが出てくるんですが。一言で言いますとね。私は私である、個だと。だけど現実の構造に即して理解すると、人間は個ではなくて、極なんだ。極といってしまうと簡単すぎるかもしれませんが。大雑把に言うとそうなんだ。じゃあ、極って何か、どういうものかといいますと、相手なしにはないものでしてね。自分一人では存在できない。対極無しにはありえない。例として北極と南極を挙げますけど、北極なしに南極は無し、南極無しに北極は無し。磁石の場合も電気のプラスとマイナスの場合もそうだし。極というのは他者無しには、ありえない、存立し得ないもの。ただ他者があるというのではなく、関わるんです。自分と関わっている他者無しには自分自身はありえない。これは仏教にもキリスト教にも共通しているといえる構造ですね。仏教の場合は大乗仏教の縁起というものがありましてね、特に、ナーガールジュナにみられるといえるでしょうけど、存在するものは関わりの中でしかあり得ないんだ。お互いに前提しあい、お互いに関わりあっている。一つのものが自分自身だけでできているんではない。そもそも構造物は多くものが集まってできているんですが、仏教の考え方では、部分の間には関係性がある。まあ、そこから発展して、「一即多」「一念多念」とかいいますけど、キリスト教の場合も「キリストの体としての教会」は、やっぱり多くの極が集まって一つの共同体を作るようなもので、個の集合ではなく、極のまとまりだと。

梅雨空のもと、皆様お元気でしょうか?

もう7月ですね。このブログを始めてもうすぐ半年です。

余り更新できていませんが、のんびりお付き合いください。

それにしても,月日の経つのが何と早いことか。

(私にとっては本当にあっと言う間の半年でした…)

 

「省察と瞑想の会」,7月と8月はお休みで10月以降の動きを検討中です。

次回は9月に行われる予定です。詳細はまたお知らせしますね。

 

最近、坂口ふみさんの『ヘラクレイトスの仲間たち』(ぷねうま舎)を少しずつ読んでいます。どれだけ理解できているかは「?」なのですが、味わい深い1冊です。

お試しあれ!

 

しばらく会の報告もアップできずにスミマセン!

6月も半ば、いよいよ明日が第5回「省察と瞑想の会」です。

梅雨空ですが、幸い明日は晴れそうですね。

私は珍しく大阪への出張です。

大阪から「実り多き会になりますように!」と祈ります。