誠一先生ご自身はお元気でいらっしゃいますが、新型ウイルスの状況をご心配なさっています。

開催予定で準備を進めていますが、主催者としても不安はあります。

 

そこで、本日の国内の流行状況から、週末の研究会の開催について判断し、後程ご連絡いたします。

 

★なお、参加予定の方へご連絡いたします。

 欠席の場合、参加費・懇親会費には当日までキャンセル料は発生しません。ご承知おきください。

 

 

 

八木誠一先生は,この2月に満88歳をお迎えになりました。有難いことです。

先生のご健勝をお祝いして,来週2月23日(日)24日(月・祝)に記念の研究会を行います。

23日は午後1時に受付を開始する予定です。

 

インフルエンザや新型ウイルスが心配ですね。

皆様が今週を無事に過ごされ,元気にお集まりくださるよう祈ります。

参加予定の方で,体調等に不安を感じられる方は,事務局まで遠慮なくご相談ください。

よろしくお願いします。

 

また,3月以降の「省察と瞑想の会」の予定もほぼ固まりました。

近日中にブログにてお知らせいたします。もう少々お待ちください。

2020年1月23日

第10回「省察と瞑想の会」八木誠一先生講義録(下)

 

 

 それから統合作用があるっていうのは,これが「信」。統合作用が実際にあるんだ。これは,まずは自分で見えなくっても,宗教として伝えられていることであって。私は個ではなくて極だと。極は対極なしには自分自身で有り得ないもので,極は場の中にあってフロントを拡げている。極同士の関係はフロント構造だ。これ僕は直接経験の3って言ってますけど。つまり,我と汝の関係ですね。フロント構造。だから,統合作用という場があって,いのちがあって,ただの生命的ないのちだけじゃなくって共同体をつくる働きがある。統合体を形成する統合作用は客観的主体的な現実だと。それを意識化するにはどうしたらいいか,やっぱり「信」っていうことがある。本当に個を超えた統合作用があるんだと。目に見えないけれどある。あるっていう「信」がないと,エゴイズムを放棄して身をそこに委ねるってことにはならない。

 僕はよく言うんですけどね,キリスト教じゃなくって仏教の言葉だけどね,道元禅師の言葉で「身をも心も放ち忘れて,仏の家に投げ入れて,仏の方より行われて,もてゆくとき」仏(覚者)になるという,そういう言葉があるんですね。「仏の家に身をも心も投げ入れる」。どうしてそういうことができるんだ?仏の家ってのがあるって信じなければできないじゃないですか。分かんなくてもね,「仏の家」って道元がそういう言い方している場がある。実は投げ入れるっていうと,投げる自分が残るように見える。自分が身と心を自分から切り離して「仏の家」に投げ入れるように聞こえる。そうじゃないんで。むしろ「仏の家」に飛び込むっていうかね。あるいは「仏の海」に身を投げるって言った方が正しいだろうと僕は思うんですけど。「仏の海」ってのはキリスト教的に言えば「神の働き」,「キリストの働き」場を含めてですけれども,「三位一体の神の働き」って言ってますけど,それを信じる。そして,そこにすべてを投げ込む。すると自分に死んで新しく甦る。これにはやっぱり「信」が必要なんです。それが分かってみれば「信」が深まっていくわけです。

 

 で,「仏心」が自分の中で目覚めた。なるほどそういう作用がある,と目覚めた。目覚めたらね,それを深めていくことができるわけです。それが「瞑想」なんだ。統合心の自覚を深める。それはどういうことか?真実を求める心,清らかなやさしい心,それを深めていくんだ。で,これが自分の中で優勢になるってなかなか難しいことで,やっぱり人間エゴイスティックですから,なかなか難しいんですけどね。難しいけれどもとにかくやることはできる。それをどういうふうにやるか?

 瞑想はこういうふうにやるんだって説明しました。繰り返しませんけれども。何も考えない瞑想あります。普通の瞑想。それはそれでいいんです。無心になるっていう,そういう実習です。それだけじゃなくって統合心に目覚めた場合に,その心を深めていく瞑想があります。今ここで言っているのはこれです。真実を求める心。これは直接経験2って書いてあるけど「主客の直接経験」に通じます。主客というと,自分があって,他者があって,他者を知る,経験する,それを動かす,利用するという。そういう構造ですね。壊す。主観と客観という構造があって,主観が客観を認識して,客観とはこういうもんだという,そういう知が社会的に通念化されて,それに従って生きている。そういうあり方を,それを抜ける。一意的な情報への依存から脱却する。こういう経験があるんですね(主客の直接経験)。

 その経験の内容をお話すると長くなるから,簡単に申します。まず,感覚ってものがある。それは何か。自分があって他者があって自分が対象を見てると思っていたら,実はそうじゃなかった。一番根本にある感覚は意識現象であると同時に他者起源だ。他者起源のものが自分の意識現象になっているという,そういうことなんで。それがはっきり分かってくることですよね。他者から由来するものが自分自身の意識現象になっている。感覚ってのは実は他者の感覚であり,自分の意識現象だ。そういうはっきりした自覚です。

 なぜそれが大事か?そこから一意性ってのが壊れる。他者についての通念的に,これはこういうもので,あれはああいうもんだと,一意的通念的に理解していて,我々はそれを利用しようとしてる,それが壊れる,そういう態勢が壊れるというより無くなるんですね。無くなるとですね,他者と自分がある意味で一つだということが見えてくるわけです。

 

 それで逆に現実の個性,多様性,深みが見えてくる。たとえば猫が単なる猫だと思っていたけれど,実はそうじゃなかった。もっと深い所から成り立っているんだとわかってくる。猫でも木でもいいんですけどね。そういう無限性。つまり何々として限定されていないという無限性。それから深さに限りがないという無限性。両方,ある意味で感覚的に見えてくる。だから真実を求める心,ここから出発する瞑想の中で実は非常に難しいと思うんだけど,今言ったことが起こり得る。真実を求める心っていうのは同時に清らかな心なんで,清らかな心って雑念がない心ですよね。それは静寂です。その静寂を突き詰めていくと無心になる。僕はこれが仏教のいう無心に一番近いだろうと思うんですが。

 ちょっといい落としました。前の直接経験,それも言葉の世界から脱却した直接経験の世界。これ,やはり無心です。これはこうである,これとこれはこういう関係にあるっていうのを取っ払った,そういう関係性,知識を取っ払ったという意味での無心です。

 それから清らかな心を突き詰めた無心っていうのは自分が自分のために配慮して自分中心の世界をつくり出そうという,それが無くなった無心です。清らかな心から到達される無心っていうのはそういう性質があると思います。やってっていると分かります。

 それからやさしい心,清らかな心から無心へってのは仏教的だと思うんですが,やさしい心から無心へってのはキリスト教の方ではっきりしているといえると思います。これがキリスト教のある意味で中心になっている。やさしい心ってのは結局平和を求める心でしてね。お互い自我が突っ張りあって喧嘩ばかりしているから,それを捨ててやさしい心,平和を求める心です。平和を求める心ってそこに何があるか?これがイエスの語っていることと非常に関係があるんだけど,赦しっていうことですよね。もちろん忍耐と寛容っていうことがあります。ここで自分の「罪の意識」が成り立つとも言えます。「自分も悪いんだ」ってこと。つまり他者をコントロールしない,自分の思う通りにしない,他者を他者として認める。

 やさしい心ってのはそういうことなんですけどね。他者を他者として認めるということの中には,忍耐と寛容が入っています。それでそれを突き詰めると赦しなんで。これが僕はイエスの語っていることの一つの中心だと思うんだけど。他者が他者としてあるまんまに他者として認めるという。と言ったって赦しってじゃあ具体的にどういうことなんだ?内容的に言うとコミュニケーションの相手として認めるというね。コミュニカント。つまりコミュニケーションの相手としてお互いを認め合う。関わりから排除しないっていうことですね。もちろん感情的にどうこうっていうこともありますけどね。それよりも相手を一人の人格としてコミュニケーションの相手として認めるという。そういうことだ。そこにやはり無心がある。どういう無心かというと他者から何も求めないという無心ですね。口で言うのは簡単だけどさ!(笑い)やってみるとそう簡単じゃないんだけど,うそじゃあない。うそじゃないけど,やってみるとそう簡単じゃない。

 

 でね,その先が創造的空ってのことになるんだけど。つまり無心というのは心の中に何にもないわけですよ。つまりこれはこういうものである。それは何の役に立つ。そういう知識とか,利用とか,諸々の(今言ったのは簡単すぎるけれども)広い意味での知識ですよね,そういうものがなくなっちゃった無心。つまり,これはこうであれはああで,こういう時にはこうしなきゃならん,ああしなきゃならん,そういう知的なものを取っ払っちゃった無心。

 清らかな心から突き詰めた無心。これは自分のための配慮がなくなるという意味での無心。それから平和への願いを突きつめた,他者から何も求めないという意味での無心。いろんな知識とか,自分のためだとか,あるいは人からこういうことを求めるとか,そういう内容がなくなっちゃった心。そういう無心がある。

 ところで心ってのは場です。ただの袋じゃないです,場です。心の中にあるものが様々な相互作用が行われるそういう場です。無心というと,そういう心の中で内容がなくなっちゃう。なくなっちゃうと残るのは心自体です。これは何かって言うと「空」だ。空っぽ。ただの空っぽじゃない,創造性がある。だから「創造的空」と言う。これが空っぽの心の創造的空です。

 

 じゃあ,それはただの空っぽの心なのか?客観的世界とどう関係するのか?さて無心になればですね,内容がなければ,心は空で創造性があるということが分かります。その内容は統合性ですけどね。無心になると心が創造的空だということは分かります。しかし,その創造的空というのは客観的にはどういうことになるのか?客観的世界,つまり自分を超えた世界ですよね。

 それで次に書いてありますが,人間は世界の中にある。もし神というならば,それは人間と世界とを包むものだ。究極の場だと。人間と世界を包む場で,その場の中で何が起こるかというと統合作用が起こるんだと。これは後でもう少し詳しく申します。

 新約聖書を見るとこうなんですよ。神とは何かってことはね,例えばパウロが「パンタ・エン・パーシン」(汽灰螢鵐硲隠機В横検砲辰討いΑ屬△蕕罎襪發里涼罎如覆呂燭蕕い董法い修譴鬚修貅身にたらしめる,全てだ」…なかなかいいけれども,もうちょっと言い足りないなあと思うんです。神は「パンタ(すべて)」じゃないんです。「空」なんです。

 もし人間が世界の中に,世界が神の中にあるって言うならば,その神自身は何かって言うと「創造的空」だ。当たり前ですよね,これ。当たり前なんだけれどもそれを実際に認識するかどうかが問題なんだ。そうだとすると,とにかく神が人と世界を容れる創造的空だとすると,心という創造的空と対応する。ミニアチュアとして対応する。両者の関係は作用的一だ。心の働きっていうのは,神の働きを映す。そういうもんだ。それが統合作用だ。

ところが統合作用が最後じゃない。つまり統合作用ってのはすべてじゃない,現実の部分なんだ。確かに世界のあらゆるものに及んでいるけれども,世界を統合するっていう強い必然的な力じゃない。むしろ非常に条件が揃ったところではじめて統合体が成り立ってくるような,そういうもんだ。世の中には統合されていない様々なものがむしろ圧倒的に多い。そうするともし神と言った場合に,それが創造的空だとしたら,神の中にあるものは一体何だ?

何があっても不思議ないわけなんです。我々の考え得る何があっても不思議はない。生成と消滅ですよね。つまりビッグ・バンのようなカオス。カオスが展開して宇宙になって,いつか宇宙が終わって凍結しちゃう。つまり生成から凍結に至るあらゆる作用。その中で何があったって不思議ないんで,ただその中に統合作用がある。統合体は非常に条件がいい場所で初めて成り立つ,こういうことが見られる。そうすると我々は,細い細い糸のように続いてきた統合体生成の歴史の中で,そういう世界の中で,人間として生まれてきて,そういう力を受けている。

 だから我々はもし行為するとしたら,やっぱり統合化の方向を選ぶ。だから破壊の方向を選ぶことだってできるわけですよ。人間ってそういう世界の中でできているんだから。そういう力をあわせ持っているんだから。世界を破壊するっていうこともできるわけなんで。できるわけなんだけれども,我々はこの世界の中で統合化の方向を選ぼう,そっちに向かって行為しよう。

 しかし統合が成就するとは限らない。統合不可能な関係ってやっぱりあるんですよね,人間の中に。いろいろ考えてみれば分かる。争ったり喧嘩していたりね,争うというのも一種の関係性ですけれども,争いもない場合は完全な絶交状態とか無関係な状態ですけれどもね,全く無関係な状態と,触れ合って争う,そういう分があるんでね。そういう中には統合が不可能な関係がやっぱりある。それをどうするんだ?我々結局それを悩んでいるわけですね。

特に近代以降,科学と技術が発展してきた,その結果国力を増した国がどうしたかっていうと,これは産業革命以前からですけどね。大航海時代にまずポルトガル,それからオランダ,それからイギリス。植民地化に乗り出した。それは16世紀。19世紀になると,南アメリカ,南アジア,アフリカの全体までも分割されちゃう。それで植民地化した列強同士がお互いの利害関係が相反するので争うようになって,それを帝国主義って言ってますけれども,大雑把に言うと植民地争奪戦争と自国の領土拡張戦争と。それで2回の大戦が起こった。というと余りに単純化し過ぎているけれども,そういうことが起こったことは事実です。だから近代では統合に反する傾向が顕著になって,今は国家同士の争うは制約される方向にはあるけれども,やっぱり人間が自分中心的な文化を人間社会も世界も破壊するという,そういうことをし兼ねないよいに見えてきているんでね。じゃあどうしたらいいんだ?

 

 取り敢えずは,我々個人のあり方が問題になるんですけれども。世界が争いの歴史にもかかわらず統合化に向かうとすれば,いったいどういうことになるのか?まあ,最終の言葉っていうふうになりますけれども。最終の言葉って何かって言うと,イエスの言っていることがここに入るってことです。イエスが言っているから正しいというのではなくて,一つの道しるべとしてイエスの言葉に導かれて,それで現実がこういうもんだっていうことが分かって,そこからイエスの言葉を見直す。そうするとイエスの言葉の方が伝統的なキリスト教,パウロやヨハネより深い,正しい,ってことが分かる。イエスが言ったから正しいというのではないけれども,イエスが言っていることは一つの指標,証になるわけ。

 そうすると「創造的空」に触れた人間の言葉。無条件の受容。創造的空っていう場合,そこには世界のあらゆるものが入っている。あらゆるものがそこで起こっている。だからそこではある意味で無条件の受容ということが成り立っているわけです。それが自分の心になるとすれば,それは赦し,和解,平和を通って統合体形成に至る。ということ。

 創造的空っていうのはいろいろな宗教でいろいろなふうに言われています。僕がこういう言葉を使っただけで,別に僕が発見したわけではない。いろいろな宗教で言われていることなんです。ですからその内容もいろいろなふうに言われている。だけども,僕の場合はイエスの言葉を念頭に置いて考えた場合に出てくること。一つの相対的な言葉です。最終の言葉とは言ったけどね。これが全体じゃないけれども,創造的空に触れた心ってどういうことになるか。世界と自分自身の無条件の受容。で,それを言い換えてみると無条件の赦し・和解・平和だ。そこから,できるならば統合体形成の方向に向かっていく。だから神を知るっていったいどういうことだ?統合体形成作用はキリスト教の言葉でいうとキリストです。ロゴスは世界ではたらく統合作用です。ロゴスとキリストの働きが統合体形成なんです。で,キリスト教の場合,神っていうともう一つ奥なんです。つまり一切がそこに含まれるんですね,一切がそこに成り立つ・ある。そういう最終的な場なんです。その中に統合体形成作用があって,キリストって言うけど,これ神の子とも言われます。直接神から出て来た働きだっていうんで。伝統的な言葉で言うと統合体形成の究極の主体としての神,これ啓示された神,イエス・キリストの父なる神と言っています。露わになった神。そうじゃないカオスを含んだ神。これは隠れた神,我々には隠された神,そういう言い方してますけれどね。そういう言い方で両方への感覚があって,特にルターなんかにはそれが著しいと思いますけど。つまりそういう全体の中に統合体形成の作用があって,我々はそこを選ぶんだとそういうことになるんです。しかし,統合体形成って言っても必ずしもうまくいかない。そうすると全体の無条件の受容というところにまた還ってきます。

 だから神を知るってどういうことかって言うと,結局すべてを受容しながらですね,コミュニカントであり続ける。コミュニカントって,統合体の極と極との相互に成り立たせ合う関係,これを僕はコミュニケーションと言ってますけど,広い意味でのコミュニケーションです。必要なものをつくり出して提供しあうというコミュニケーションで,普通の社会ではそれを貨幣が媒介してなされるということになっていますけど,元来は無償で与えるということがあり得る。そういう場なんです。そういう意味でのコミュニケーションを営む人格がコミュニカントだ。コミュニケーションをするという意味でコミュニカント。コミュニケーターという言葉がありますけど,これはコミュニケーションを職務にしている人の話でね,コミュニコってのは元来ラテン語で共有化するという意味です。で,お互いに与えあう,共有化ですね。一つのものを皆で持つという共有ではなくて,誰でも必要なものを持つという意味の共有。そういう営みをする人をコミュニカントという。コミュニケーターじゃなくって,コミュニカントって言ってますけど。コミュニカントってのはフロント構造を本質とするような人格ですが,すべてを受容しながらコミュニカントであり続ける。これが神を知ることだ。瞑想ってのはここに収斂していく。ここに至ることは可能でしょう。ただ,そう簡単なことではないけれども。こういうことが瞑想ということで見えてくるんだと。これが僕自身の考え方の,新約学がかかわる部分は抜けていますけれど,ほぼ全体の構造です。僕が書いたものは,だいたいこれの各部分を詳しく書いたということになっていますが。今年1年話したこともこれが中心になんですけれども。

 さっき申しましたように,来月はこういう立場からイエスの言葉を見てみる。イエスも創造的空に触れて語っていたんだということが分かってくる。それでもしもう1年やるとすれば,それを深く掘り下げるというか。結局はまるで違ったことを言うわけはないので,ここに書いたことを別の観点から更に詳しく申し上げることになるですけれども。

 今日のところは僕自身の考えはこういうことであるということでありました。ご清聴ありがとうございました。

*以下、質疑応答がありましたが省略します。

2020年1月23日

第10回「省察と瞑想の会」八木誠一先生講義録(中)

 

 次に省察の面がありまして,結局言語批判です。情報っていうのはだいたい言語でつくられていますけれども,与えられた情報に従って考え行う,そういう自我の問題性を掘り起こすためには,やっぱり言語批判ってのがなきゃあいけない。それで言語を使っている場合に大きな問題性がある。それは誤謬です。あるいは不完全性。これはふつうとは違った意味です。どういうことかっていうと,言語社会で通用する現実って何か?それはまず個との言葉の意味ですよね。それから情報の内容です。もちろん色々あるんだけど,我々の言語社会では,現実そのものじゃなくて,現実に関する通念が現実にとって代わっているということに気がつく必要がある。それはイメージでもいいんです。通念とか通念的なイメージがですね現実にとって代わっている。じゃあ現実って何かって言うと,我々に働きかけて我々の思考や行動を変えるもの,それを僕は現実と言っていますけどね。外からのが多い,外から自分に働きかけて思考とか行動とかに影響するもの,実際に。それを僕は現実って呼んでいます。言語社会では現実は何かっていうと言葉だ。言葉の内容,イメージ,それが現実そのものになり代わっている。だから我々は現実を見失って,言葉やイメージに従って考えたり行動したりしている。そのうちにほんとうの現実から離れてしまうんだ,気がつかないで。

 これに気がつくことが人間を考える上で問題性として大事なことの一つだと思っています。

 

 ひよっと思い出したけれど,自我唯幻論ってのがありましたよね。1960年代,70年代。岸田秀って知ってます?彼が一生懸命書いていた。自我って幻想だって。僕は岸田さんと対談したこともあるし文通したこともあるし本のやり取りをしたこともあるんで,もっと付き合っておけばよかったと実は思っているんです。彼は自我と現実とが離れているって,特に本能と比べて言ってましたけどね。本能的に生きている動物の感覚とか反応は現実に即している。ところが人間の自我はそうじゃない。現実を見失っている。それで「自我唯幻論」って言っていて,その限りでは僕は大いに同感した。ただ,現実に目覚めるにはどうしたらいいか,それが岸田さんにはなかった。僕は彼にそういう道はないわけじゃないと言ったら,別に彼は反対はしませんでしたけどね。宗教の人がそう言うのならそうなんだろうと言ってましたけど。自我の「幻想」はよく考えてみると分かります。

 

 そういう通念に従って考えて行動している自分自身ですね,その自分自身が「私は私によって私自身だ」と考えている,これを「個」って言うんですけどね,そういう「個」が契約共同体をつくっているのが社会だ。ここにはやっぱりね非常に大きな問題がある。私は私によって私自身である,これ間違いだ。自分を構成するものは全部他者起源だから。他者との関係性なしに私は有り得ない。私は私によって私だと,個だというのはこれは物凄い抽象ですね。それから共同体も,契約共同体だと。そういう建前で法律や何か,全部じゃないとしても,できてます。契約っていうことが暗黙,あるいは明らかな前提になってできてますけどね。しかし元来,人格共同体は契約によって成り立つんじゃないと。元々人間っていうのは,人間だけじゃない生物すべてがそうですけれど,最初から関係性の中で成り立っている。契約によって関係ができたんじゃない。両面があります。

 ところで,ここで問題があります。契約の内容を言い表す言語は情報言語ですが,一般に情報言語は一意的でなくてはならないのです。一意的な言語情報は「どうなっているのか」という問いと,じゃあ「どうしたらいいのか」っていう,問いへの答えなんです。その答えは「こうだ」と。それ以外のものではないという,それが一番有難い。それがこうかもしれない,ああかもしれないっていうのでは,情報にならない。無意味な情報になっちゃいます。情報は情報である限り一意的でなきゃあいけない。こうであって,それ以外ではないということでないといけない。

 

 ここでも何べんか言いましたように,一意性が成り立つことについては制約があって,伝統的な論理学の基礎に出てきますけれども,「AはAであって非Aではない」と,「Aと非Aの間には第3者は存在しない」,と言われてます。情報はそういう言語で構成されていると。更に一意的なものとして原因と結果,手段と目的,あるいは支配と被支配,これらは全て一意的なものです。特に支配と被支配,これも一意的じゃなきゃいけないというのは,権力というものは一つじゃなきゃいけない。国家は,我々の場合民主主義だから,選出された国会議員が国会で多数決で決めたものが法律になって施行される。もちろん法律だけじゃなくて,地方自治体では条例をつくるしね,あるいは政府に政令とか省令とかありますけれども,中心は国法で,国会でつくることになっている。もちろん変えることも可能なんですけれども。我々の場合はそうだけれども,独裁制の場合には,一人の独裁者が決めちゃうわけで,いずれにしても方針を決めるものは一つじゃなきゃいけないんですね。一つの社会に二つの決定機関があったら必ず争いになる。一つの社会の中にそういうものが二つあるってことは許されない。だから支配と服従の仕組みには一意性があるわけですね。

 我々の社会ではそういう一意性の言語が優越する仕組みになっている。それでいいのかってことですね。一意性が成り立つについては,「同時に同一観点から」という制約がつきましてね。一意的な言語が通用するのは実は同時かつ同一観点においてのみだ。でも実際上は同時じゃなくって,違う観点からも,一意性が要求されるように,情報の場合はなっている。それが元来一意的じゃないものの構造を歪ませる。そういうことがあるわけです。つまり世界の構造は統合体形成に向かっているというのは,考えれば分かるわけなんですけれども,一意的な言語はそれを手段と目的,原因と結果,っていうことで系列化する。現代の経済がそうです。科学の知識を技術に応用して,それを利潤優先の経済関係の中に組み込むということをやりますから。支配と被支配という関係でも一意性をつくります。こうして世界を秩序付ける強い傾向があります。しかも秩序付ける中心にあるのは小数の人間であって,自分勝手なことをやる。一般に人間は自分を中心にして自分に都合のいい一方的構造をつくろうとする。そうすると元来一意的な構造になっていないものが,歪んで壊れていくという,そういうことがあるんです。これは一意性の言語の大きな問題性で,だけどあんまりこれを言う人もいないし気が付いている人もいない。

 

 客観的な情報に関しては,仏教は非常に鋭い感覚を持っていましてね,与えられた一意的情報を鵜呑みにしてはいけないんだって。また,こうしなさいああしなさいという一意的指令に関する批判はキリスト教が鋭く持っているわけ。両方とも情報の元にあるものを掴んで,そこから情報を作り直せってことを言っているんですけどね。それはなかなか徹底しない。要するに現実から断ち切られた情報に支配されると,現実が壊れてしまうという,そういう問題性です。

 つまり与えられた情報に基づいて考えて行動する単なる自我,これは結局自己中心的になるんですね。エゴイズムに陥るんで,それが結局自分自身をも社会をも自然をも破壊しかねないということになって,現代ではそれが大きな問題になっていると思います。つまり人間っていうものは,この世界の中にあって始めて生きていられるのに,その世界の方を壊す。地球温暖化はその一例ですけどね。あるいは資源の浪費,環境汚染もそうだけど。一意的な社会は環境を壊していく。これがもう眼に見えるようになっている。

 それから一方的支配を求める植民地化とか戦争とか,そういうことをいやって言う程我々経験した。その原因はどこにあるのか?それは情報社会にあるんだけれども,まずこれに気が付くことが大事だ。つまり大雑把に言うと,統合という働きがあって,それが世界を持続可能な共同体にするのに,それを破壊して自分中心的な一意的な系列をつくって,それで世界と社会を壊してしまう。それだけじゃなくって自分自身が自分自身を誤解して壊れていく,そういうことです。だから問題として統合心を意識化しないといけない。しかし統合作用は意識に現れていない。それを意識化しなきゃいけない。どうして意識化しなきゃいけないか?自我ってのは意識的なものなので,意識に現れたものに影響されるんです。意識に現れないものには動かされない。フロイトは意識化されないものに自我が動かされていると指摘しましたけれども,それはとても歪んだ形で自我を動かすわけでしてね。たとえば,何か飲みたいとか食べたいとか簡単な欲望にしても,意識に現れると自我を動かす。意識に現れないと自我を動かさない。だから統合作用というものが実際にあってもですね,それが意識に現れないと人間を自我を動かすことがない。だから隠れた働きを意識化することが大事なんだ。「悟り」とは統合心の自覚,意識化だと言える。それを僕は直接経験って言っているんです。

 

 その直接経験の1は,ここに書いてありますけど,自分の中に現れて自我を動かすはずの働きに目覚めること。どういうことかって言うと,私は個ではなくて極だ,極ってのは対極なしには自分自身で有り得ないものだ。これはさっき言いました。言葉を語る自分は言葉を聞いてくれる人なしには有り得ないんでね。僕が語っている言葉を聞いて反応してくれる人なしには,僕は言葉を語る自分自身で有り得ない。お互いにそうですから,人格は極なんです。この点だけから考えてもね。それで極っていうのはね,働きの場の中にあるわけで,それは統合作用という場の中に,あるいは人格共同体というふうに言い換えてもいいんですけどね,共同体をつくる場の中にある。他方,個っていうと限定されているものです。限界が非常にはっきりしている。ここまでが自分でここから外が自分じゃないと。すなわち私は私であって私以外の何ものでもない,そういう理解を含んでいます。私っていうと私の中と外と非常にはっきりした限界がある。ところが人間はそういうものではないんです。

 僕はフロントといってますけど,人間には作用圏があるんですね。作用圏が拡がっているんです。それは自分の行動の影響が及ぶ範囲というふうに考えてもいいし,自分の言葉が及ぶ範囲,まあこれは狭いですけどね,広い場合もある。自分の言葉が及ぶ範囲,自分の行動の影響が及ぶ範囲,それに拡がっているわけで。僕はそれをフロントといってますけど。中心に行くほど自分性が濃いけど,拡がっていくとだんだんと薄くなっていくという形でね拡がっているんです。それを具体的に示すのが責任でしてね。責任って自分自身に対する責任が一番大きいけれども,他者に対する責任があるわけですよね。責任があるっていうのは自分の作用が及んでいるということであって,だから僕の責任が及ぶ範囲で僕のフロントが拡がっている。そういうふうに考えることもできます。

 だから遠いところには責任がないというか,無限小になるわけで,これ感じ方によるんですけどね。この世界に食事もろくに摂れないで貧困生活を送っている人がいる。それに対して僕に何の責任があるのか?直接に責任はないけど全くないわけじゃないでしょうね。シモーヌ・ヴェイユなんて人は,中国にそういう人がいるっていう話を聞いて,ご飯食べられなくなっちゃったという話がありますけれどね。そういう人はそういうことに対して責任を非常に強く感じるわけなんでしょう。とにかく自分の言葉,作用あるいは責任が及ぶ範囲,それに拡がりがあるわけでしてね。人格はそういうものなんです。だから拡がりと拡がり,作用と作用,交わるところで,他者の作用を自分の一部に変換するという僕のいっているフロント構造が起こるわけ。それが共生なんですね。

 

 誰かに何かやれっていわれてやるっていう場合も,本当は,誰かにやれっていわれて,「あ,そうだ,やろう」と自分の意志に変換してやるのが本当でしてね。本当はいやでいやでしょうがないけれども仕方ないからやるっていう,これは他律って言ってまして,一番極端な場合が奴隷。あるいは戦争でもそうでしょうけれども。そうじゃなくて,やれって言われたことを「あ,そうだ。やりましょう!」と自分の意志に変換する。それを行なうっていうのが人間の自由の構造です。極同士お互いにそういう関係にある。食べる場合は魚でも何でも食べちゃいますから,食べられるものを破壊するわけですけどね。人間同士の場合には,もちろん破壊しないで,相手が与えてくれるものを自分の一部に変換する。あるいは相手が要求するものを自分の意志で行うというふうに変換する。こうして関係性が「自由」に変換される。それを僕はフロント構造といってます。極同士の関係はフロント構造なんで,強制とか他律っていうのはそれを壊すわけですね。それはフロント構造,人格関係を壊してしまう。

 それで今ここで詳しくお話しませんけれども,「統合作用」ってのは場があって,そこに統合作用ってのがある。個々の身体に関してはよく分かるんですね。それを「いのち」と言う。「いのち」っていうのは身体の統合作用だ。他方,社会とか共同体についてはエゴイストの集まりが非常に多いからよく見えないけれども,しかし実はそこにも統合作用はあるんで,統合された共同体をつくるようになっている。自分ってのは,創造的自由が本質なんだけど,それがですね,お互いにフロント交換をすることで共同性が成り立つようになってる。そういうのが本当にある。あるんだけれどもそれは隠れている。隠れてるからそれを意識化しなきゃならん。つまり統合体っていうのは客観的事実でもあるんです。原子とか太陽系のようなシステムもそうですし,それから生き物もそうだし,心もそうなんで,実は共同体形成に及ぶ統合作用ってのがあって。そうすると統合作用は世界を超えたものなんだという,そこにいくわけです。

 

 統合体はとにかく客観的に存在する。客観的に存在するけれども,主体的にもあるじゃないか,統合作用は自覚できるじゃないか,それ「統合」作用として自覚されるかどうかは一応おいても,そういうことがあるんです。

 統合心とはどういうもんだ?例えば清らかなやさしい心といったら分かるんですよね,また真実を求める心。これを悪いっていう人はいないと思うんです。清らかなやさしい心っていうと何のことだか分かるでしょ?それから真実を求める心。損をしても本当を言わなきゃいけない。で,これらが統合作用の現れだからですよ。人格に働く統合作用の現れ。意識化された現れなんで。これに従っていると統合体ができるんですよね。たとえば人間社会というのはコミュニケーションのネットワークですけどね,もちろんそれは言葉のコミュニケーションを含んでいるわけで,言葉による情報のネットワークといった場合の一番大きな問題はうそ言ったらコミュニケーションが成り立たない。社会が壊れる。今それが問題になってますけれどね。うそか本当か見分けるのが難しいから。だけど情報ってのは真実でなきゃいけないんです。でなきゃ社会を壊しますから。逆に言うとですね,真実っていうものが共同体を成り立たせるでね。ただこの場合の共同体っていうのはですね,必ずしも統合体でないかもしれませんけれどもね。でも普通に真実っていうとそうです。

 もっとはっきりしてくるのはやさしい心です,つまり思いやり。つまり人の苦しみを自分の苦しみと感じるっていう,そういう心ですよね。これは「俺だけよければいいんだ」っていうのじゃないですから。自分は他者と一緒にいるんで,他者の苦しみは自分の苦しみです。そういう心です。これは共同生活を成り立たせる心でしょ。目の前にいる人じゃなくって,見えない人に対してもそうでしょ。

 それから清らかな心。清らかってどういうこと?非常に抽象的じゃないかって。まあ濁ってないって言えばそれっきりですけどね。つまり自分さえよければ他の人はどうなってもいいんだ,どんなうそをついてもだましてもいいんだ,他人を利用することばかり考える,それは清らかな心って言わないですよね。清らかな心って,透明で光を宿すっていうことなんですけれども。この次にちょっと触れますけどね。「心の清らかなものは幸いだ。その人は神を見るだろう。」イエス自身が言ったのか多少問題がありますがそういうことが語られている。事柄としては非常に注目に値する事です。清らかな心っていうのは光を通す心だ。

 で,清らかな心,やさしい心,真実を求める心,こういう心は個が利己的に他を支配するような社会じゃなくて,共同体,僕が言っている統合体を成り立たせる,そういう働きの一部なんです。だから,統合作用はあるじゃないか。どういうふうにあるんだ,人間の主体にはこういう心として現れてくるじゃないかと。実はこれらは自分がつくったものじゃない。自我より深いところから出てくるものなので。それが統合体をつくる。身体の中の作用っていうのはことごとく物質の反応なんだけど,不思議なことにそれが「いのち」の営みになっているという。物質的な作用が「いのち」の営みになっている。客観的にも主体的にも統合作用ってのはあるじゃないか。それを意識化しよう。そのためにはさっき言ったように一意的な言語の支配,またエゴイズムを乗り越えなきゃいけない。これが省察ですよね。省察に含まれる部分です。

(「講義録(下)」に続く)

2020年1月23日

第10回「省察と瞑想の会」八木誠一先生講義録(上)

 

 今日は天気が悪くて寒いのによくお出でくださいました。2月に私の米寿の祝賀会やって下さるんだそうで,ありがとうございます。それで今日と2月で「全体のまとめ」をお話したいと思っているんです。

 

 それで今日は,私が考えていることを,聖書学の部分は抜かしまして,だいたいこういうことだということをお話します。さて,『新約聖書』がありますよね,イエスについて書いた部分があって,それからパウロが書いた書簡もある。福音書の中にも「ヨハネ福音書」というものがある。これはちょっと別なんです。原始キリスト教というとパウロ,それからヨハネ福音書の神学が中心になりますけど,両者とも,イエスとは違うんですね。

どこがどう違うのかと。それは一つの大きな問題です。仏教との比較をやってみても,パウロと親鸞とは一致するところがある。もちろん同じじゃありませんけどもね,いろんな意味で一致する。イエスは禅と一致するところが多いんです。しかしイエスと禅,同じじゃありません。どこがどういうふうに違うのかという問題がありましてね。ところで私の『聖書』の理解の仕方は,『聖書』に書いてある言葉を通して,その元にある経験,つまりパウロが見たもの,ヨハネが見たもの,あるいはイエスが見たもの,そこまで遡って,それを現代の言葉で言い表そうと,そういうことなんです。

 かなり無茶な発想なんですが,僕が留学しているときに指導教官といろいろ話したことがあるんですけれど,文通もしましたけど,僕がこういうことやろうと思っていると言ったら,そんな無茶なのとできるものかと,それに近いようなことを言われたことがありまして。そんなこといったって,ただイエスがこう言ったというだけじゃダメなんで,どうしてこういうことが言えたのかと,そこまで遡らなければだめじゃないか。それは来月88歳になりますけど,やっと見えてきたというか,こういうことだったかなあと。それは2月の会でお話したいと思います。

 

 それで今日のところはそこに至る道程ですよね。それがお配りしたレジュメに大雑把に書いてあります。2月は,そこからイエスがどう見えるかというお話をして,それでその先どうするかということがあると思うんですけど,私自身は目も悪くなっているし耳も悪くなっているし,体力も落ちているし,何かできたとして来年1年かなと思うんだけど,皆さんのご希望で,もしご希望があったら何とか1年ぐらいは何かやるといっても,要するにここで言ったことをもういっぺんもっと詳しくお話するだけになるんですけどね。あるいは瞑想ってなことの実習も試みる。来月,祝賀会があるならば事務局の方にお願いしておきたいんですけど,皆さんの希望をまとめておいて下さいよ。もしご希望があれば1年くらいは何とかなる。あんまりご希望なければ止めます。ちょうどキリがいいから。

 

 それで今日のことなんですが,ペーパーの1ページ。ごく簡単に書いてありますんでね,読んだだけでは分からないと思いますけれど,今まで私の話を聞いてくださった方には,いろいろ思い当たってあのことかと,納得していただけるかと思います。

 

 基礎論があるんです。それは現代批判です。現代人の人間理解ですよね,特に欧米系ですが。アメリカの方が極端だと言えるかもしれませんね。人間は個人だと。社会ってのは個人がバラバラに暮らしているとお互いに争いあって自滅するから,一緒に仲良く暮らすことにしましょうという契約を結んで,それで社会生活が成り立った。こういう契約を結んだ事実ってのはありませんから,結局「事実はそうなっている」ということなんですけれど。つまり個人がもとで,契約の結果秩序ができた。つまり国家の権力機構ですよね。秩序の中で分業が成り立ってきていると。で,国民は契約に従って秩序を守り自分の仕事を行なうんだと,こういうことになっていまして。こういう前提がある。政治も経済も法律もですね,全部とは僕も思いませんけど。基本的に民法ですよね。刑法もそうですけど,こういう建前でできていると思います。

 

 話が飛びますけれど,社会が特に現代になってから情報化されまして,情報化社会になっておりますが,与えられた情報に基づいて,自分たちがどういうものであるか知られ,また何をしたらいいかが決めらると。与えられた情報に基づいて自分がなんであるか,どうしたらいいのかも知るという,そういう仕組みになっていると思います。人間が人間になって言葉を使いだした頃からこういう傾向はあったんです。傾向というか,非常に強いしばりがあったんですけど,それが現代になって著しく突出してきたという感じを僕は持っています。つまり現代は情報社会だ。

 情報といっても与えられた情報なんで,自分が作った情報じゃありません。与えられた情報に基づいて考える。与えられた情報の基づいて行動を決める。つまり何に基づいてこういう情報が成り立ったかということは,実際上問題にもし得ないほど複雑になっています。せめて一番の基本だけは確かめようという,僕の意図はそういうことです。与えられた情報に基づいて考えるっていっています。現代人には自己理解の中心がありまして,「私は私である」。これよく言われることで,上田閑照さんがこれを問題にしていますが,「私は私である」。それだけじゃなくって,「私は私によって私である」。つまり自分が何であるかは自分で決める。私はこれを「単なる自我」といっています。つまり与えらえた情報に基づいて考えて行動する自我。で,その中心にある自我は「私は私によって私である」と思っている。ここの問題性ですね。これ当たり前じゃあないか,皆そうやっているじゃあないかと,そうなんです。そこに正に問題があるわけです。これが第一の部分でね,現代の人間ってどういうものか,基礎論の一番根本にある部分です。

 

 「私は私自身によって私である」。しかしよく考えてみると実はそうじゃない。これはもちろんキリスト教も仏教も言っているわけですけど,大乗仏教の縁起論で特にこの辺が問題になっています。で,それはキリスト教の自己理解と一致するところがあるので,それを申し上げますと,これは哲学者でもこういうこと言う人もいるんですけどね,ただどこまで徹底してこれを理解しているかということが問題だ。言われてみれば誰でもそうだと思うんだけれども,どこまで身に浸みてこれを理解しているかということが問題です。難しいことじゃありません。つまり私は私であると言っても実は「私を構成するものはすべて他者起源だ」。これをここで何べんも言いましたよね。全部他者起源。「私」はそれを自分の一部に変換して生きていると。それを「いのち」って言うわけですけどね。

つまり他者に由来するものを自分というものに有機的にまとめあげる働き,これを「いのち」という。僕はこれを「統合作用」と言い換えますが。だから「いのち」って何かって,客観的なものじゃありません。ピンセットでつまんでこれが「いのち」だよ,さあ御覧なさいっていう訳にはいかないんです。見えないものなんですよね。だけどやっぱりあると思われている。で,なんか物みたいに言う場合がありましてね,我々は客観的な事物になぞらえて考える方が分かりやすいものだから,そうやるんですけどね。たとえば「いのちをやる」とか「いのちを拾う」とかね。「いのちを捨てる」とか言うじゃないですか,なんか物みたいにね。だけどもちろん物じゃないんです。中身を言えば「統合作用」だ。これはまた後で申しますが。

 それで「私を構成するものはことごとく他者起源だ」。ちょっと考え直してみますとね,そもそも私という存在,これが自分で自分になったわけじゃありません。両親の合成物ですからね。そうやって生まれてきましてね,お乳飲んだりご飯食べるようになったり,もちろん空気も吸いますが。私の身体を構成する物質,これはことごとく他者の一部を取り入れて自分の一部に変換したものだ。そうでしょ?どこかに自分自身で自分の中につくったものがありますか?これはもちろん遺伝子の働きだって言われてますけれどね,外から取り入れたものを自分の一部に変換していくという。とにかくどうしてそれが行われるのかという,遺伝子の働きだとか言われていますけれど,それを別にしましてもね,事実なんです。だから身体の部分についてそうですよね。

 

 で,それから知的なこと。言葉。我々は言葉を知っています。人間って言葉を使う存在でしてね,十分に言葉が語れないと現代生活に適応できないってことがありますが,とくかく人間ってのは言葉を使う存在なんですね。私は言葉を知っています。だけど言葉ってのは私が作ったものではなくて覚えたもの。外から学んだもの。つまり日本語だったら日本語の長い歴史の中で社会的に成り立ってきたもので,それを僕は学んだ。

 それから知識ですね。僕が持っている知識。これも基本的には全部学んだものです。行動様式も,世の中にはいろいろな場面があって,こういう場面ではどうしなきゃならないんだっていう,そこも基本は学んだことで,それを身につけたんです。心理学でもよく言いますけど,父親はその場合重要な役割を果たすと。社会性を教えるのは父親だっていったり,フロイトなんかだと超自我,まあ良心にあたるものですけれども,それがあって,それが自分の行動を監視して規制するんだと。その内容が全部学んだもので,父親を介して学んだものが中心になる。それから学校でしょうけれどね。

 で1,2,3合わせてみます。他者起源のものはばらばらなものですから,元来。ばらばらなものを身体という一つのまとまりにするという作用がある。生きている身体(身心)にまとめる働きがある。それを「いのち」っていうふうにいいますけれども,その内容は僕は「統合力」だと,「統合作用」だと。で,「統合」ってのはどういうことかと,何べんもお話しましたけど,統合体はいろいろな部分からできているけれども,部分同士がお互いに関わりあっている,広い意味でのコミュニケーションを営んでいる。つまり自分のつくったものをお互いに交換し合って皆で一緒に一つのまとまりとして成り立っている。非常に不思議な働きです。つまりこれ「円環的作用」なんですよね。たとえばご飯を食べる。それが消化されてエネルギーに変換される。それがまた口を動かしてご飯を食べるエネルギーになるという。全部「円環的」になっているんですよ。この円環をつくるっていうのは物凄く難しい。我々の知っているのは因果関係うあ包摂関係のように「直線状」のもの。これつくるのは易しいんですけどね。円環上のものをつくるってのは非常に困難なんですが,それができているんです。それを今「統合力」と言っておきます。

 

 で,「統合」ってどういうことか。これは「極」から成り立っている。「個」じゃない「極」だ。「極」ってのはつまり他者なしには自分自身でありえないもののことです。他者とのコミュニケーション,関係なしにはお互いに自分ではあり得ないもの。そういう「極」が一つにまとまったものなんです。

まず原子がそうですよね。素粒子から成り立っているわけですけれども。原子っていいますね,ただのバラバラな素粒子じゃなくって。原子の構成要素は中性子,陽子,電子なんですが,どうして中性子と陽子がくっついていられるか,素粒子どうしの関係はどうなのか。関係させるものをボソンといってますけど,陽子と中性子は中間子を交換しているんだと。それから他のものは光子(フォトン)を交換してだと言われていまして,僕はそれ以上自分では知りませんけれども,やっぱり働きの場がありましてね,その中で構成要素がコミュニケーションをやっているんですね。ボールを投げたり返したりするようにしてつながっている。つまり原子は統合体になっている,一つのまとまりになっている。

 原子が集まると星雲になりますが星雲っていうのはあんまりはっきりした形はしていないから,カッコの中に入れてあります。太陽系はやっぱり重力の場の中で成り立つと統合体ですね。太陽が一番大きいんだけど,その周りを遊星などが回っているという。それらはお互いに重力を及ぼしあって一つの系としてまとまっているので,それぞれの天体が極になっていますね。だから一つ変わると皆変わってくるというところがある。

遊星の一つである地球の中にどうしてか知らないけれど生命が発生して,それが分化発展して多細胞生物になった。普通に言う生体ですが,これには細胞から成る器官ができて,その器官が集まって一つの身体になっていますけれども,そういう器官同士にコミュニケーションがある。それだけじゃなくて,現在では細胞レベルでも伝達物質を交換してお互いに連絡をとりあっているんだと言われてます。分析するのは難しいと思いますが,大雑把に言って,生命という場の中ではそういう極がお互いにコミュニケートし合って一つにまとまっている。漠然としていますけれども,問題は「まとめる作用がある」というそのことです。これ本当だと。

 それから人格ですが,人格っていうのはばらばらになり易いもので,人格の共同体をつくるのは難しいけれども,本当は人格はそもそも関係存在で統合された共同体をつくるようになっているんです。これはキリスト教の中ではっきり出てきます。更に人格の一面である心。心も,特に芸術的なこころ,それらの物をただ機械的に秩序付けるのではなくて,一つの統合されたまとまりとして描き出す。特に音楽がそうですけどね。そういう作用がある。

 それは,機械とは違う。機械は一意的に定義可能な機能をもつ部分を論理的に一貫した秩序で配列してある。機械と統合体とどう違うか?機械といっても複雑なものもありますから,あんまり簡単には言えないけれど,だいたい一方的なんですね。例えば車なんか。人間がコントロールしながら走るという,その為にあるんで,エンジンも車輪も車体も全体を動かして人やものを運ぶためのものでありましてね。車体が車輪の為にあるとか,車輪がエンジンの為にあるっていう,そういうことではなくて,基本的に因果関係,手段目的関係がはっきりしている。特定の機械ってそうですね。何の為っていう目的を果たす為に設計されている。

 

 ところが統合体の場合は何の為ってことがないんですね。何でもいいんです。スズメならスズメの部分をとりますと,眼は見るため,耳は聴くため,くちばしは食べるため,羽根は飛ぶため,足は木にとまるためって言えますけど,じゃあスズメは全体として何の為にいるんだっていうと,何の為にいるんですか?目的はないっていうのが正しいんだと思うんですよね,とりあえず。動物は皆そうです。生きているもの皆そうだけど。部分を見ると確かに手段・目的関係になっていて,しかしよーく見るとそれは相互作用ですね。一方的な作用ではなくて相互作用です。つまり羽根と筋肉,筋肉と血の流れ,これらは全部お互いに連関していましてね,飛ぶっていうことが食事をする為にもなっているというような,相互的な関係があります。

 これが機械と違ったところですね。で,機械って言っても色々ありますから,複雑なものでは相互作用,つまりフィードバック装置がありましてね,フィードバック装置がなければAIなんかできないわけですけど,そういう相互作用がありますけどね,つまり制御ってことをやりますけど,それでも全体として見れば目的・手段関係があると思うんです。生体にはそれがない。そういう特徴がある。

 つまり極からなっていて,一つの場がある。作用の場があって,その中にあるものは極である。つまり他者なしには存在し得ない極で,極と極の間にはコミュニケーションがあって,広い意味のコミュニケーションです,必要なものをやり取りするという,情報だけじゃなくってね。それで全体が一つにまとまっているという。そういう統合体がある。特に重要なのは必ず場があるということでしてね。例えば天体には重力の場がありましてね。生きているものには生体という場がありましてね。心の中にも,心の出来事についても心という場があります。それから人格の共同体についても共同体を成り立たせる場がある。この場をつきつめるのが我々の問題。きわめて大雑把ですけれども,世界には統合作用が実際あるんだってね。これは後の方まで続いていきます。

 で,超越って言いますよね?つまり我々が客観的に見ることができる事物がある。客観的に見て確定することができる事物があるけれど,それを超えた何かがある。客観的・科学的に証明しにくいから,それが問題になるんですけれども,しかし超越ってどのようにあるかって言うと,統合の場としてある。つまり天体に対して重力の場が超越であるように,人間存在を含んだ世界全体に対して統合を成り立たせるような場があるということです。これが基礎,僕が考えていることの一番基礎です。統合体形成作用っていう一つの超越的な働きがあるということに向かっていきます。

(「講義録(中)」に続く)

2019年12月19日 第9回 省察と瞑想の会 講義録(下)

 

 それで次の話に入りますけれども,人間って言葉を使い出して以来そうだと思うんだけど,極端になってくれば現代の情報化社会のようにね,万事情報が優越しているんです。情報ってここで何べんもいうけど,「どうなってるんだ」と言う問いへの答えと,「どうしたらいいんだ」という問いへの答えで,その答えってのはなるべく一意的でないといけない。一意性とはこうであってそれ以外ではないという性質のことです。そうでないと情報になりませんから。それで情報の何が問題かっていうと,これは「知」なんですよね。「知」の世界。

 言葉の世界,知の世界。これでこっちにウエイトがかかってくると知のもとが霞むわけです。つまり,「何々する」っていう行為にしましてもね,法とか道徳とか倫理とか慣習とか,これらが言葉で言い表されると「知」なんです。だから言葉で言い表されたものを聞いてそれに従うってことになるんですけれど,実はそのもとがあるんですね。大雑把にいうと人間性,ここから出てくるわけなんですよ。だけどこれが見えなくなってくる。特にヨーロッパなんかだと啓蒙主義の時代がそうなんですけどね。倫理だけではなく,認識の場で「悟性を行使する勇気を持て」という言葉がモットーになった。知が優越してきて,逆に19世紀になると暗い感情や情熱が重んじられるようになってくるんです。一つの変換が必要なんです。

 たとえば行為なら行為,そのもとになるような「人間性」ですよね。これがはっきりしていないと規範だけが宙に浮いちゃう。要するに身体性が軽視されることになる。そういう傾向,今非常に強いと思います。だから,現代の情報化社会で情報だけが優越している。そして情報のこれ主体は自我ですから,現代では自我だけが肥大してね。こころの面が疎かになってくる。そうすると人間それに我慢できないというのかな。不満を持ちましてね。これ歴史的にも起こっていることですけど。これがね。

 例があります。余りにも知に偏していると感情だとか感動だとか情熱だとかね,そういうものが圧迫されてくるので。それで逆に感覚とか感動とか情熱とかね,そういう非合理なものを重んじる生き方が現れて来る。ヨーロッパでは啓蒙主義の後で特に18世紀後半から19世紀にかけてそういう傾向があったですね。もちろんヨーロッパだけじゃありません。そういう知の優越に対して生が反発してそれをぶっ壊して壁を破ると。破るときに一番出てくるもの何ですか?形として。

 

(Kさん)熱狂ですか?

 

 そう。熱狂もそうなんです。熱狂とか興奮とか情熱とかね。感情,感覚。しかしそれどういう内容です?歴史的に見ると闘いとエロスなんですね。だから闘いやエロスって,実際に自分の身に起こったら大変なことになるから,現実から一歩退いた文学や何かで表現されることが多いんですけれど,古来文学の中心って闘いと愛欲なんですよね。むろんそれだけじゃないけれどもね。ヨーロッパなんかとってみてもね,一番古い叙事詩ホーマーの『イーリアス』と『オデッセイア』もね,『イーリアス』って戦争の話です。で,そのもとに愛欲が出てきます。日本はどうですか?日本の古典なんかでも『平家物語』も戦記ですけどね。『源氏物語』は愛欲の話ですよね。もともとこういう根がある。

 情熱に燃える,熱狂する時代がある。国家主義の時代がそうでしたね。植民地争奪競争の中で国家の為にっていう熱狂が出てきた。競争に遅れたドイツや日本で特に著しかった。戦争ってのは熱狂だけじゃないけど,熱狂を伴うんですね。

 それでこれがこの世界を壊すって形になる。これは非常にまずいですよね。生を強調する芸術にも戦いとエロスというモチーフは非常に多いですよね。芸術ってのはだいたいこれに根差している。もちろん全部じゃありません。

 

(Sさん)そうするとそれを制御すべきだと?

 

 そうそう。押さえつけるとまた反発する。戦争ばかりやって大失敗だと気が付くと,それをやめて経済成長を求めるような他の方に行くっていうことがあるけれども。こういう運動始終起こってますよね。

 まあ,なんて言うかな。日常的というか,自我だけの世界に満足できなくなって,だからって自分で戦ったって,愛欲に溺れたって大変だから。芸術とか映像とか活字とかそういう世界でそれを満足させるっていうのが普通なんです。

 

(Yさん)スポーツに熱狂するのも同じ要素ですか?野球とか。

 

 あれやっぱり競技で一種の戦いですから。あれは非常に緩められた,実際の殺し合いじゃない競技ですよね。ただ優劣を競うっていう。もちろんそうです。競技に熱狂するっていう形もありますね。

 

(Sさん)それは代替的なものなんですか?

 

 代替といえば代替だし。生の表現っていえば表現ですよね。

 

(Sさん)ですから本来やるべきことが社会的にできない場合には代替物としてそういうことが…

 

 ええ,抑圧されていると,こういう方で補償を求める,そういう形になっていることが多いですよね。

 

(Sさん)そうするとそういうスポーツみたいな一種のルールに則った争いみたいのは,よろしくないということになる?

 

 いやあ,やっぱり情動のはけ口はないと大変だから。あった方がいい。ただ昔のローマみたいに剣闘士が殺し合いをやるなんていうのがあるじゃないですか?ああいうのはいけないです,もちろん。スペインの闘牛なんていうのもかなり問題になっている。相撲とかレスリングとかあるいは他のスポーツとか他の形がいい。で,スポーツってそれだけじゃない。もっといろいろな要素を含んでいます。「美しい」という要素とか「進歩」という要素とかいろいろ含んでいるから一概には言えないけど。スポーツの熱狂の中にこれがあるっていうことは確かなんでしょう。

 

 それでね,これじゃまずいんですよ。「生」,特に闘争とエロス,それへの情熱は歴史的にいろいろな形で出てきていますけれどね。実は大切なのは「生」じゃなくて「共生」なんですよ。人間が求めるものは。つまり「生」という要素を含んで,「知」という要素も含んで,「共生」という形。共生を求めるってのが当たり前っていうか一番の基本でしてね。共生の「共」を重んじるか「生」を重んじるか,それはいろいろニュアンスの違いがあるだろうけれども。一緒に生きるって場合にはやっぱりこれを求めるのが「生」の一番基本だって,そういうことになるでしょ?

 戦後の世界はあっちへ行ったりこっち行ったりしながら,とにかくこういう方向を求めたと思いますけれども。一国だけが他国を支配するという,そういう覇権主義はいけないと。やっぱり皆でね。できれば同等の立場で共存共生するんだっていう。そういう方向に進んでいるとか思いますけど,なかなかうまく行かない。やっぱり覇権主義があって,みんなそれぞれの国がアメリカファーストとかやっているから。

 それで我々が問題にしているのはこれなんです。共生の最もいい形を統合というふうに言い表す。共生だけじゃいろいろな形があるから。個の自由と全体の平和,それから秩序といってもいいんですが統一ですね。それらがバランスをとるような世界。宗教ってこれを願う心のことだと僕は思っている。これを願う心を目覚めさせることだ。ただ情報だけでああしろこうしろといったって,だめ。そうではなくて,共生を願う心が自分の中から湧きだす。自分の中にあるそういうものに目覚める。まあそれだけじゃ大雑把すぎるけれども,取りあえず基本というか。「情報」の底にある,そういう統合を求める心に目覚める。それが宗教だ。

 

 だから宗教っていう場合には確かに「知」の要素かありましてね,認識の要素がある。この会を「省察と瞑想の会」っていってますけれど,自己省察ってことが必要で,たとえば「個」と「極」の区別だとかね,「統一」だとか「統合体」にどういう形があるかだとか,そういうの広い意味での省察ですね。だけど「省察」だけじゃあうまくない。「統合心」,統合を求める心っていっているけれど,心ですよね。一番深いところにそういう心があって,それが統合体をつくるとすればですね。しかしそれは単に個人の心の中にあるんじゃない。客観的にもそういう統合体をつくっていく働きがあって,それが人間の中で統合心として現れてくると。それは言い換えれば,身体っていう面では「生命力」だっていいました。これは身体の問題ですけどね。生命力だ。生命力って何かっていえば身体を統合する働きだ。身体のつくりを見ればわかるけれど,共生を求めるはたらきです。統合するはたらきってもちろん外からいろいろなものを取り込んで,やっぱりコミュニケーションが必要ですけどね。互いに他者のフロントを自分の一部に変換していくという。そういう働き。だから,統合の働きっていうのは,物質的な面があるし,生命的な面があるし,それから人間の場合には認識だけじゃなく「自覚」っていう面がるわけです。

 で,そのためには,そういう働きが本当にあるんだって,それに目覚めることですよね。目覚めてそれに委ねる。それは広い意味の信ですよね。それを掘り下げて行くってのが瞑想になる。つまりそういう働きがあるっていう信ですよね。それを自分の中に見出していくってのが自覚で。その自覚を深めていく,あるいは純粋化していくのが瞑想だ。

 ちょっといろいろしゃべり過ぎちゃったけど。ちょっとここで切ります。

 何かご質問があったら?

 

(Kさん)最後聞き落としたんですけど,自覚をどうしていくのが瞑想だとおっしゃったんですか?

 

 深めていく,純化していく。

 

 実際のプロセスっていうのはあっち行ったりこっち行ったり,上ったり下がったりだから,そうすんなり行くもんじゃないけれど。整理していうとそうなると思います。

 

(Kさん)人間の集団において,統合が成り立っていくには,自然にそれが成り立っていくんじゃなくって,先生は先ほど「知」と「生」の二つの要素を白板に書かれましたけれども,結構意識的な何等かの要素がないとなかなか自然には統合は成り立たないと考えた方がよろしいですか?

 

 本質的には自然なんです。さっき言った原子とか太陽系とか生体とかは自然に成り立ってくるんですけれども。こういうものから離れた自我の働きのことを僕は人為といっている,例えば単なる自我っていってますけどね,与えられた情報に基づいて考え生活する自我のことです。人為と対立する自然ってのはほとんど忘れ去られちゃっていて,情報に基づいて,あるいは自分中心的に,自分で自分をコントロールするって面だけが強調されているけれども,実はそれだけじゃないんです。瞑想っていう場合そうなんです。自分で自分をコントロールするっていうのをまず捨てるんですよ。自分で自分を歪めることをまず放棄する。そうすると坐禅の時によくお師匠さんいいますけど,どうするのか身体が知っているってね。むしろコントロールを解いてやるんだ。止めるんだ。そうすると身体が元の状態に帰っていく。身体が知っているからそれに任せろって。まあそれで10分やそこらでそう任せられるものじゃないけど,基本的にそういう所があって,それ自然だっていっているわけですね。

 で,じゃあ放っておいていいかっていうと,やっぱりそうじゃないんで。やっぱり知識が必要ですね。身体ってこういうもんだっていう,知識が必要だけど,知識が全体をコントロールするっていうんじゃなくて,むしろ自然ってどういうもんか知るような知識。やっぱり知識が必要です。ある場合にはそれは規範にもなります。だけど中心は自然だ。だから宗教は統合心に目覚めることだっていいましたけど,言い換えると自然に目覚めることだとも言えるんです。自然って何かっていうと「おのずからしかる」ってこと。人為を加えないでも「おのずからしかる」。さっき言ったように身体が知っているっていう。本当にそう言い切っちゃっていいのかなと思わないこともないけど,基本的にはそうですね。

 よく僕はいいましたけどね,瞑想状態じゃない時には自我が身体から浮き上がっちゃって,それで自我が自分の身体支配しようとしている。船体に喩えると舵取りが船長を押し込めちゃって自分だけで船を動かそうとしている。それじゃあいけない。それを元の形に返す。自我が自分を支配しようとするのを止める。放棄する。放棄するっていうとやっぱり自我が放棄することになるから,基本的には落ちるっていう,なくなるってことですけどね。

 

(Kさん)それは現代人だから,自然に帰るためにある程度知識が必要だということだと思うんですけど,ちょっと神話的な考え方になるかもしれませんけど,超古代においては人間ってのは自然に何もしなくても知り得た社会があり得た?

 

 いやあ,そこの所は大変難しいんですけど。旧約聖書の創世記にアダムとイブの話がありますね。神様がアダムとイブをつくったと。もちろん神話なんですけどね。二人を園に置いたと。楽園ですよね,エデンの園。それで神様がね ,知恵の木の実だけを食べちゃいけないと言ったと。ところが蛇がイブをだましたと,そういう話もあるんですが,蛇がまずイブにこの木の実を食べると神様のように善悪を知るから食べてみろって,まずイブが食べてそれからアダムにも食わして,それがばれてふたりが楽園追い出されたという話があるけれど。この神話の内容ですよね。知恵の木の実。知恵の木の実をどうして食べちゃいけないんだ?知恵の木の実を食べるってどういうことだ。いろいろ説あるけれども,特に従来のキリスト教はふたりが禁令を破ったというところに重点を置いているけれども,そうじゃなくってね。知恵の木の実を食べたってことが問題。

 どうして知恵の木の実を食べたのが問題なのか。今言った自我,人間が言葉を使うようになって,言葉を使う自我が,知識をもつ自我なんですけれど,そういう自我がもとを離れて,知恵によって自分と世界を勝手に支配するようになった。そこから諸々の禍が出てくるという,そういうことを言っているんだと思うんでね。だけど人間ってのは一回食っちゃったんだから,なくすわけにはいかないのでね。むしろその知恵っていうのを全体の一部に収める方が必要だと思う。

 

 だから単なる自我の支配に抵抗するっていうか破るっていうか,さっき言った生の情熱とか感動とか感激とか,そういうものに目覚めるっていう方向もあるけれども,これはやっぱり気をつけないと破壊的になるんで,それは困る。生といっても共生なんです。一緒に生きる方だ。こっちに目覚める。共生ってのは統合って形をとるのが一番いいって分かってきて,それで自我よりも生よりも深い統合心に目覚める。それが宗教になってくる。そういうお話です。

 ところがこれがね,じゃあどうしたらいいか。統合体を自分でつくれるか?そうじゃない,これは与えられているもの,自然に成り立つものだ。だから統合体ってどういうものかって知識は必要で,それを邪魔するものを取っ払うとか,それを助けるものを与えるとか,そういうことはできるけれども,これ自体はどうしようもない。そういう意味では知識は必要です。

 そうすると自然のあとに無心ってのが出てきますが,それはこの次に残しておくことにしまして。自然は無心だと。これがさっきの自我の知とまさしく反対の意味だ。

 何か質問ありますか?そんなことやって何になるんだよとか。(笑い)

 

(Kさん)今の話でもともと人間が知識というか知恵を獲得した時からそういうような問題を孕んでいたと…

 

 ええ,そう思います。

 

(Kさん)統合に達するとは未来的な人類的な課題だという?

 

 ええ。未来ではなく現代の課題になる。実は課題なんだけれども,どうせうまくいかないだろうってペシミズムがありましてね。それが実現するとすれば,この世界が終わって新しくなった時だって語る終末論があります。しかし,それはそれで困るんでね。やっぱりできる限りこっちに近づけていくっていう。それは平和への道です。だから,こうなってどうなるんだよというと,それは確かに平和への道なんです。だから意味があります。では個人としてどうなんだっていうと,別に得するとか,儲かるわけじゃない。はい。人間ってこういうもんかって納得するだけの話で。

 

(Sさん)統合作用っていうのは連続性があるものと解釈していいでしょうか?たとえば生体の生命がなくなって死という状態になりますよね。その場合は統合体はその時点で作用していない…

 

 それでね,だからもう一つ奥があるんですよ。統合っていった場合。それはイエスの言葉だと「神」っていう。

 

(Sさん)そうすると神に変化しちゃうというかつながるということですか?

 

 いやいや。統合というのはこの世界の一面でね、全体じゃない。

 

(Sさん)そうすると死というのは全体とどういう関係が…

 

 だから,全体というと,イエスの言葉だと「神」なんだけど,あらゆることが起こる場ですよね。その中に統合作用があって,非常に条件の揃ったところで統合体が実現していく。我々,幸いその系列の後裔でしてね。人間って統合を目指す生き物になって生きているけれども,だから我々としてはそっちを願うというか選ぶというか。そうしないと仕方ないけれども。統合っていうと一番の根本で全てだっていうんじゃなくて,混乱とか死とかあるんですよね。そこのところが非常に問題なんで。全体の中にはあらゆるものが起こり得るんだけれど,そこに統合作用ってのがあって我々はそこに乗っかってきた。またそれを継続して選んでいくより仕方がないっていう。結局そういうことになる。だから死ぬのはどうしようもない。死というのは統合の反対です,否定ですから。

 

(Sさん)この辺りに来ると先生のお考えに理解できない部分が出てくるんです。

 

 いや。事実そうなっているといっているだけの話。

 

(Sさん)そうすると死ってのは意味づけはない自然現象だってことになるんですか?

 

 つまり統合体って,身体として具体化した場合にはやっぱり終わりがあるんです。いろいろ意味づけはできますよ。創造っていつも新しくなるっていうことだから,新しくなっていくには古いものがなくなんなきゃならない。だから創造といった場合,必ず古いものがなくなり新しいものが生まれるっていうことがあるから。そういっちゃあそれまでなんですけれどもね。とにかく世界ってそういうふうになっているって,しょうがないんですよね。あらゆるものが起こり得る場があって,ただしそこに統合作用って働きがあって非常に恵まれた条件のもとでそれが現実化していく。生体ができて生命が発生して進化して人間ができてそこまで来た。我々としてはその線を選んでいくより仕方がない。

 

(Sさん)そうすると統合が最終地点ではないよということですか?

 

 統合が完成するっていうのが最終地点ですけれど,まだ完成してないからね。完成するとどうなるかっていうのもはっきりとは見えていないですけれどね。ただ我々がここでどうするかっていえば,統合ってのはこういうことだってことを弁えてそっちの方を選んでいくってそういうこと。

 

(Sさん)見えていないことを追求する根拠というのは?

 

 根拠ですか?やっぱり真実を知りたいっていうそれだけのことでしょ?

 それは創造的空(神)の創造力に根差している。

 

(Sさん)今まできている時点は真実に達していないわけですよね?まだ。

 

 真実に達するっていうのがどういう意味か分からない。真実を知り尽くすという意味ですか?

 

(Sさん)そうです。

 

 それは知り尽くしてないですよね。我々知っているのはごくごく一部一面に過ぎない。それは自然科学者なんかが一番よく知っているし,社会科学者もそうでしょうけれどもね。タンパク質なんか研究している人そういいますよ。何で何十兆という細胞が一つ一つが働いてお互いにコミュニケーションすると一つのまとまりができるのか,全然分からないって。それを解析しようとしたら大変だ。

 

(Sさん)今まで到達したイメージが逆に覆っちゃう可能性もあるということですか?

 

 どういうイメージですか?

 

(Sさん)統合体を知り得る…

 

 もっといろいろ知られてくるでしょうね。たとえば人間の身体の仕組みなんかも。世界の仕組みもそうだと思います。

 

(Sさん)科学的認識じゃなくて統合作用としての…

 

 だから,物質の世界における統合ってのは科学の問題ですよ。人間の世界における自覚ってのは人間の問題。科学じゃあどうしようもない。いくら科学が発達したって「清らかなやさしい心」なんていうのはテーマにならない。それは人間のこころの問題。両面あるんですよね。科学的に研究できる面と主体的に自覚して行動する面と両方あって,これは一つにはならないですね。それはね脳科学ってのは非常に発達してね,脳の働きや細胞の相互関係が少しずつ見えてくるようだけど,これはまた物凄く大変なんで。まだほんの始まりに過ぎないってことをいってますけれど。

 とにかく外から見ると脳の働きなんだけど,内からすると心なんでね。脳が心を生むなんていう馬鹿なこといっている人いるけど,見えるわけないんですよ。生むってのは外から観察していうことだから。心ってのは自覚されるもの。違うんですよね,局面が。だから脳が心を生むなんて,「心」が客観的科学的に直接見えるわけがない。脳科学たって言い直してみれば人間の心の作用ですから。科学を心の世界に還元しちゃうことだってできる。

 だけど一応そこまで言わなければ,外から見れば見れば脳だけど内から自覚すれば心だって,それ一方が他方を作り出すのを見るってのは不可能。やっぱいりこれね,別の領域として考えるより仕方ないですね。ただ,ストレスが身体に影響してくるってのは,事実だから。そういうことは心得ておいていいと思うんですね。それはそれで知っておく必要がある。両者は無関係じゃないですよね。脳細胞が壊れれば頭おかしくなるんだから。脳細胞が老化すりゃあいろいろ知能にも衰えが出てくるし。でしょ?僕なんかこの頃人の名前忘れてしょうがないんでね。困っちゃう。話しててふっと忘れちゃって。えーとあの学者何て名前だっけ?って。

 

 だから無心とその先のことはこの次にしましてね。どうしましょうか?いろいろしゃべり過ぎたからまた10分ほど瞑想やって,それから何かあったらディスカッションして終わりにしましょう。半分休憩のつもりで。始めます。

 

 (瞑想タイム約10分)はい。ここまでにします。

2019年12月19日 第9回 省察と瞑想の会 講義録(上)

 

 全体の見通しのようなことで今日プリントをお配りしましたけれども,「省察と瞑想」というのは一番下でしてね。そこで一つ通らなければならない所があって,僕はそれを「統合」といっています。

 

 ある程度繰り返しになると思いますけれども,分かり難い点もありますから簡単に説明しておきます。

 はじめに,僕が「統合体」といっているものの例を挙げておきます。「原子」。「星雲」ってのは余りにも形があいまいなんで,入れていいかなあと思うんですが,まあカッコに入れてあります。それから「太陽系」,これは一つの統合体です。それから「生体」,これがモデルになるんですけどね,一番の。それから人間の場合ですと「人格共同体」ってのが統合されるはずなんですが,実際は統合されてないので「共同体」と書いてありますけれど,「社会」と「共同体」はちょっと意味が違うんですよね。「共同体」は本当は統合されるはずなんだけど実際はそうではなくって,ただ「統合」は割りと芸術に現れて来るんで,芸術のすべてじゃないですけれど。どちらかというとクラシックなものが分かり易いですね。音楽でもバッハとか,モーツァルトもそうだと思いますけれどもね。ベートーベンも全体として統合された音楽を書いている。

 

 これらに全体に共通しているものっていうのは,構成要素ですね,構成要素が「個」じゃなくって「極」だってことです。で,「極」っていうのは,バラバラな「個」です。「個」っていうと,特定の形と内容をもって持続するもの。それで一つ,二つ,三つと数えられると。それで多くの場合,自分自身によって自分自身であると考えられていまして,実際にはそんなことないんですけど,ものによって比較的そういう傾向が強いものもありますから。「個」っていうとそういうものなんですが,「極」っていうとバラバラじゃなくって,一番分かり易いのは磁石の北極と南極のように,相手なしには自分自身であり得ないものです。

 つまり関わり合いがありましてね,広い意味でのコミュニケーションといえますけれども,それぞれが必要なものを作ってお互いに交換するという,それでまとまりを作っているということです。原子っていうのがそうらしいんで,原子に関するものを読みますとね,昔は陽子とか中性子ですね,そういうのが原子核をつくっていると。そういうのがどうしてくっついているのか分からないということがあったんですが,メソン(中間子)−湯川さんが予言してみつかったー中間子もいろいろあるようですが,さらにボソンっていろいろなものが見つかってくるのですが,それ交換しているんですね。交換しているってやっぱり比喩でしょうけれども,比喩的に言うとキャッチボールみたいに交換しているんだっていう。それで陽子や中性子がある距離を持ちながらまとまりをつくっている。原子がそうですね。それから太陽系っていうのも太陽が大き過ぎるですけれども,太陽を中心にした遊星(惑星)がありまして,太陽の周りを遊星が回ってますけれども,一つの運動の系でありまして,これ相互作用をやっているわけです。太陽系が太陽系として形をもっているのは動きながら相互作用があるからなんで,太陽が圧倒的に大きいと言っても遊星は太陽に落っこちないで運動していますけれども,お互いに影響し合って一つの系としてまとまっている。

 それから生き物の身体がそうでして,これ部分からなっていますけれども,これが一番のモデルになるっていうのは,人間の身体は,頭と手足・胸腹っていう分け方もあるし,あるいは皮膚と神経系と骨格と筋肉系と循環器・消化器・呼吸器など。そういうふうに,それからもちろん脳ですね。そういうふうに臓器に分けることもありますが,これが臓器レベルではもちろんですけれども,臓器をつくっている細胞レベルでも,最近そういうことが分かっているらしいんですが,活動していてお互いに伝達物質出し合って関係しあっているんですね。普通に考えてもよく分かりますけれども,心臓と肺とたとえば消化器っていうようなもの,お互いに自分の仕事をしてつくったものを与え合っている。それでお互いに成り立っているわけですね。

 脳が全体をコントロールするという意味があるので,脳は全体を支配するんじゃないということが最近分かってきているようです。コントロール機能であって命令しているんじゃない,とにかく非常に複雑にですねそれぞれのものが自分でつくって必要なものを与え合って,全体として一つのまとまりになっている。ものすごく不思議です。どうしてそういうことができるのか分かっていないらしい。ただ,そういうのがあるっていうのが事実でしてね。それから(例として)芸術って挙げてますけれども,音楽なら音楽で,音っていうのはそれぞれ独立しているのではなくて,特にクラシックの場合そうですが,メロディーなんかでも,一つの音は過ぎ去った音を前提にして,来る音を予定して成り立っているんで,それが全体として一つのまとまりをつくる。モチーフという小さな区分けがありますけれども,それが全体としてまとまったいます。絵や詩でもそうです。

 

 人格の共同体というのは本当は一番はっきりしたモデルなんです。実際の社会はそうなっていませんけれども,パウロが教会ってのはキリストのからだだっていうので,その成り立ちを論じています。要するにそれぞれの人がそれぞれの役割を分担しているということと,それぞれの人が必要なものをつくって(物だけじゃなく情報やサーヴィスもそうですが)お互いに与え合って,それで一つにまとまっているというのですが,ただそこで教会は「キリストのからだ」って言われているのが非常に特徴的です。つまり,「極」のまとまりと言ったときには必ずはたらきの場があるんだということを。

 さっき太陽系の例を挙げましたけれども,重力の場がありましてね,重力の場の中でそういう系ができる。それから磁石の場合もそうなので,磁場がありまして磁場の中でたとえば簡単な例ですけれども軟鉄が磁石になってお互いに関わり合うと。原子なんかも素粒子の働く「場」がある。必ず「場」があるんで,音楽の場合は人間の心だって考えられます。人間の心は音を曲にまで統合する場だ。だから,そういうイメージとしてはやはり人間の身体が一番イメージし易いんですかね。まとまりがあって,多くの部分があって,部分同士がお互いに必要なものつくって供給しあって,それで一つにまとまっていると。だから,そこに部分がありかつ構造ですね,骨格が示すような構造があって,それでじゃあ場は何だっていうと,身体ですが,その統合作用を「いのち」っていってます。

 

 「いのち」ってよく言うけど,極めて分かり難いものでしてね,「いのち」って何だ?これが「いのち」ですよって顕微鏡で見たりすることができるものではないし,ピンセットで摘まみ上げられるものでもないしね。ディスプレイでこれが「いのち」ですっていえるもんじゃないし。じゃあないのかって,あるんですよね。あるけど何処にあるかっていうとどこにもない。だから「いのち」って何かっていうと,やはり作用だと,はたらきなんだと。

 僕は「いのち」とは統合作用だって考えるのが一番分かり易いと思っています。つまりコミュニケーションのネットワークを作る統合作用で,統合作用が滞ると病気になるしコミュニケーションがストップすると死んじゃいます。だから「いのち」って何だって非常に分かり難いけれども,ものみたいに扱う場合もありますよね。「いのち」をやるとかもらうとか「いのち」を捨てるとか拾うとかね。何かものみたいにいっているけれどもものじゃない。じゃあ何か。

 僕は身体という場の統合作用だ,と言いたい。身体を場にした統合作用だというのが,一番僕には納得できる分かり易い。つまり統合体っていうのは「極」のまとまり。お互いにコミュニケーションがあってね,一つにまとまっていて,必ずそこには働きの場がある。いま「極」と「統合」だけいいましたけれども,「統一」っていうあらゆる要素に共通するものがありまして,一番分かり易いのは「構造」です。

 だから一つのまとまりという意味でも「一」って言いますけれども,構造が統一,目に見える統一を示していると。これを詳しくいうときりがないので,これぐらいにしておきますけれども,それにしてもそれだけじゃああんまり漠然としていて分からないと。ここがどうなっているんだというご質問がもしおありでしたらここで答えられる範囲で申し上げます。

 

(Kさん)統合とか統一の例は今の説明でよく分かったんですけれど,逆にそうでないものは何かあるんでしょうか?

 

 統一が支配的になっている集団がありまして,たとえば軍隊みないなのね。トップダウン。それであの(言い忘れていたごめんなさい)「極」の性質は自分自身で自分自身であるっていう所があるんです。ただし,相手なしにはそれが成り立たないということでしてね。「極」のー人間の場合特にそうなんだけどー本質は何かというと「創造的自由」なんですよ。「個性」ね,「創造的自由」なんです。個性的な創造的自由が自分一人では成り立たないっていうと矛盾に聞こえるんだけれども,よく考えてみるとそうでしてね。他者との関係なしに自分自身であるっていうとまずないんですね。ある意味でも矛盾です。この前から話している一意的な言語ですね「AはAであってそれ以外の何物でもない」という。そういう言葉を使うと語れないんです。自分自身が,関係性の中で成り立つということは矛盾だから一意的な言語では語れない。

 ということは,これは経験上そうなんだけれども,一意的言語だけを使っているといくら説明をしても分かんないんですよ。分かってもらえないのね。スイスにいるときに講演会があって,統合の話をしたんですよね,それはドイツの出版社から小さな本になって出たんですけどね,それ英訳されたりして大学のテキストなんかでも使ったらしいんですが,使った実際の話を聞いて見ると,割れる。ナンセンスだという人と,非常に面白いという人と割れるんだと。ナンセンスだという人は自分が自分であるということが関係なしに成り立つっていう,頭の中で分かんないんだと思うんですよ。実際,事実を見ればそうなんだから。

 

 ここで一言付け加えておきますけれどね,早い話,呼吸がそうですよね。僕はこれをフロント構造といってますけれども,他者のフロントを自分自身の一部に変換するっていう。僕はフロント構造といってますけれども。呼吸っていうのは,外から取り込んだものを自分の一部に変換するわけです。それ,いのちの営みですよ。それから飲食もそうなんで,食べたものを分解して組み直しますけれども,とにかく自分の一部に変換する。変換ってのが一番いいと思うんです。因果じゃないんですね。変換。

 変換っていうのは,(例えば)翻訳で英語を日本語に直す。翻訳者がいる。英語が原因で日本語が結果だっていうんじゃなくて,翻訳者がいて日本語に変換する。翻訳者がいるから訳文は翻訳者によって違ってくるんだけど。変換の例としては翻訳が一番分かり易いと思っているんです。一種の翻訳なんですよね,変換ってのは。外のものを取り込んで自分の一部に変換する。言葉がそうでしょ?僕がつくったんじゃない。学んで他の人がつくって使われてきた言葉をそれを僕が学んで自分自身の言葉として使う。これ変換です。言葉ってのがそうだし。それで省略しますけれどね,自分自身の成り立ち考えてみると,そもそも僕自身ってのが両親の合作ですから。僕自身が僕自身をつくったんじゃあないんで。それで僕自身が成り立っているのが物凄く不思議なんだけど,とにかくそうなんで。

 僕なら僕でね,僕自身の構成要素を考えてみると,自分が自分から作り出したものって何にもないんですよ。全部他者起源。私はすべてが他者起源だ。変換作用で自分のものにしているんだ。その変換・統合作用のことを「いのち」という。事実そうなんで,ちょっと考えればそうなんだけれども,僕はそういうものを「極」っていってるんですよね。「極」っていうと対極が目に浮かぶけれども,それが中心なんだけれども,もっと広くとってもいいんだけれども,とにかく「極」だと。「極」だってのはそうしても「AはAであってA以外の何ものでもない」っていうそういう考え方を捨てないと分かんないらしい。ですよ。皆さんどうですか?

 

 「場」があって「他者」があってはじめて「自分」がある。その中心は因果じゃなくって変換だ。あの,命令と服従もそうなんですよね。命令と服従って一意的な言葉で考えられることが多いけれども,「何々しろ」「はい」ってそれをやるという。実際はそうじゃないんです。命令を自分の意志に変換するんでね。それが標準です。それがないと奴隷になるんでね。やりたくないけど嫌々ながらやる。やらないと酷い目に会わされるからっていう。それも一種の変換には違いないけれどもね。そうじゃないんで。むしろ因果関係でしょう。人から言われたことを自分の意志に変換してやるっていうのが標準です。人間関係一般がそうですね。これは因果じゃないんですよね。

 これ人間関係で考えると非常によく分かると思います。「語りかけと応答」とかね。これ因果じゃない変換なんだ。だから人間ってのは「極」なんで。「極」におけるコミュニケーションの構造はどういうことかっていうと,他者のフロントを自分自身の一部に変換するんだ。いろいろありましてね。分業って時にはね,相手が何をやっているかっていう,それが自分自身が何かをやることの条件になっているんで,そういう広い意味の構造もありますよね。相手が何をやっているかっていうのは自分が自分の仕事をする一つの条件にする,変換する。これも一種の変換です。

 

 今のご質問なんですけれど,例えば軍隊なんか,僕は知らないけれども,やっぱり,命令と服従というのが強いらしい。軍隊行ったことがある人はご存じだろうけれども,我々もう知らないからね。ここに居られる方はたぶん経験ないだろうから。いかがですか?軍隊の経験おありですか?ないでしょ?なくなっちゃったね,もう。(笑)でも色々話を聞いてみると命令と従順ってのはそれこそ因果関係みたいで変換じゃないみたいじゃないですか。そういうのは統合体じゃないっていうふうにいうんです。

 それから一つの目的が全体を支配しているっていう構造も,これはいわゆる「ゲゼルシャフト」で,ゲゼルシャフトっていうと会社がよくモデルになってますけれども,学校や病院や役所もそうですけれども,特定の目的があって全体が目的を達成するように構成されているって,これは部分的には統合になるんですけどね。全体としてみると僕はこれは統合といわない。統一。目的論的な統一が強いですね。

 統合っていうと全体として何のためってことがないってね。人間って存在には,これやっぱり何のためって特定の目的ないわけですよ。だいたい生き物ってのがそうなんで。鳥でも,部分見ると羽根が飛ぶためとか嘴が食べるためとか眼が見るためとか足が木につかまるためとかありますけど,全体として雀一羽何のためにいるかって,ないでしょ?統合体の特色です。何のためってことがない。

 そこに何のためっていう目的を与えて全体を統制すると統合体じゃなくなっちゃう。だから難しいんですよ。自由で個性的な創造的な人格。個性的で創造的な自由が,お互いにそうでありながらお互いにフロント構造をとおして一つにまとまるっていう,そういう関係。でもこういうものがやっぱりあるんですよね。どうしてあるっていえるかというと,原子とか太陽系とかいうものはそうなんでね。統合体になってるんです。生体がそうです。人間の場合が非常に難しいんだけれども,あとでいいますけど。そういう客観的な統合体があるから,この世界に客観的に統合体をつくる作用があるって,それ確か。

 

 じゃあ人間の場合はどういうふうに現れているかっていうと,これが外からの命令なんかじゃないんで,内からのものです。清らかなやさしい心とかね,平和と真実を求める願いとか。たとえば清らかなやさしい心なんていうのは,人格統合体をつくるように作用しますから。人を自分の思うままに支配しない。それで他者を他者として重んじる。そしてお互いにそうし合う。それで必要なものを与え合うってことになりますからね。

 あるいは,真実を求めるってのもそうです。言葉のコミュニケーションは統合体においてももちろん非常に大事なんで,人間の統合体の一つの要素になります。その場合情報ってのは本当でなくちゃいけないんで。うそ言ったらコミュニケーションが成り立たなくなります。だから本当って非常に大事なんですけどね。統合体じゃなくたって大事なんだけれども,統合体にとっても非常に大事です。そういう,誰が考えてもそうあった方がいいという,人間のこころは,統合体つくるようになってますんでね。そういう作用がある。ただ我々は一意性を重んじる考え方とか,原因と結果・目的と手段で操作するとか,他人を自分の意のままに支配しようとするとか,あるいは自分で自分を支配しようとするとか。そういうことで壊しているっていうことです。

 で,これ詳しくいうときりがないから,また機会があったらいくら繰り返してもいいんですけど。何かここで確かめておきたいってことありますか?

 

 あ,そうだ。もう一つね。統一じゃなくてばらばらになる場合があるんです,統合体を壊すものね。個がばらばらに散乱しちゃっている。これは統合体じゃないです。

個が「極」じゃなくなってね,ばらばらに散乱している状態。それから逆に統一されている状態。これも統合体じゃない。統合体ってのは「極」のまとまりってのが一番いいんですけどね。だから実際に見てみると統合体って少ないですよね。あんまり成り立たっていない。だけど,本当はそうあって欲しいんだ。

 

(Kさん)先生,そうしますと,社会において統一に力が強すぎるってやっぱり不健全…

 

 ええ,極端な例が国家主義でしてね。全体主義っていうか。あれ一番よく分かります。国家権力の力が強すぎると自由を圧迫する,この前の戦争の時の全体主義国家を考えるとよく分かりますけれどね。統一が強すぎると個(極)が成り立たない。個がばらばらになると統合はまたぶっ壊れるんですけどね。

 

(Sさん)統合体のいわゆる目的というのはないわけですね?

 

 特定の目的はない。

 

(Sさん)そうすると良い悪いとか善悪とか…

 

 それは統合を成り立たせるかどうかで決まります。

 統合を壊すものはだいたい悪ですよ。

 

(Sさん)そういう価値判断なんですね?

 

 はい。考えてみてください。だいだい統合を壊すものって悪。

 うそとかね。人を傷つけるとか。

 

(Sさん)宗教間の対立がありますよね?

 

 争いになったら悪ですよ。本当はあんなことやっちゃいけないんです。

 

(Sさん)その場合,両方が善だと主張した場合には悪という価値付けってのはどこから来るんでしょうか?

 

 両方とも100%正しく,かつ善だってことはないでしょ。実際には。

 

(Sさん)宗教では皆さんそういってますよね?

 

 自分がそう思っているだけだよ。はっきりいうと。それがもし本当だったら統合体になります。つまりコミュニケーションの成立でして,僕はたとえば仏教とキリスト教もそうなればいいと思ってますけどね。対話ってことやっているけど全体としてそうじゃない。よく見てみると仏教ではこの要素(己事究明)が強い,キリスト教ではこの要素(共同体形成)が強いってあるんですよ。一つの統合体として見るとね。だからコミュニケーション可能なんだけどね。そうすれば宗教的な統合体ってできるんだろうけれども,実際上は成り立ってませんけれどもね,部分的にしか。部分的にはあるんですよ。

 

(Sさん)所属している個々の人たちは己が信じているものが善だと…

 

 だから,皆自分が善だ善だと。オウムの人も善だって思っていたんですよ。あれ,どこが悪いかって,やっぱりトップの一部分が全体を支配しようとしたじゃないですか。あれ,いけない。

何ごとによらずこれだけが真実だって思うのが僕は問題だと思っています。つまり一意的な言葉で言い表して,これだけが真実だってのは,僕はあんまり信用しないことにしている。

 

(Sさん)先ほど先生がおっしゃった「命令」というのは一つの一意的なものに属するわけですよね?

 

 いろんな形がありますよね。永続的な命令,これは法とか道徳とかってそうだけど。それから今ここでの個々の命令。いろんな場合がある。

 本当は,命令と服従というと一意的になっちゃうから,本当は「語りかけと応答」ということなんですけどね。一番望ましいのは。

 

(Sさん)だた,清らかとか優しさっていうのは,その言葉だけとらまえると一つの独立した普遍的な価値みたいになっちゃいますよね?

 

 それもいろいろ評価のしようがあると思うので,僕は統合体をつくる働きとして意味づけています。それ自身ではどうかというといろいろだろうと思うんですよね。

 

(Sさん)そうすると存在論的に個別に存在するということだけでは,違うわけですね。

 

 だいたい清らかなやさしい心って一人じゃないですよね。他者あってのことで。自分一人だったら清らかもへったくれもありゃしない。どうですか?

 

(Sさん)砂漠の中で一人でいれば…

 

 ええ,清らかでも汚れてもありゃしない。

 

(Sさん)やはり集団生活しているからそういうことが…

 

 そうだと思います。集団生活が成り立つようになっているんだと思う。集団生活の結果,養われてきたって面もあるでしょうけどね。

 

(Sさん)目的論的にいえばそれが価値っていうか基準になるっていうことですか?

 

 基礎だけれど,基準にはならないでしょう。それだけじゃあ。統合ってのはいろいろな要素があるので。

 

(Sさん)そうすると先生がおっしゃった清らかとかやさしさっていうのは?

 

 統合体をつくるための一つの要素。そういうものがあるんです。真実を求める心とか。自然性もそう。だから,道徳と違うんです。

 

(講義録 下 に続く)

2019年11月21日第8回省察と瞑想の会 八木誠一先生講義録(下)

 

 まだ時間があるから,もうちょっと何か質問してください。その質問が終わったらまた(瞑想)やってみて。それで今日はそこまでにしておくけれども。

 

(Nさん)そこで「創造性」というのはどういう意味ですか?

 

 新しいものが成り立つことですが,つまり自分で生きようと思わなくてもね,自分はどっかから生かされていて,自分が自分を生かしているんじゃないっていう。生命ってのをよく考えます。そうだ。

 

 

(Nさん)自然の創造性ということですか?

 

 創造性が自然に現れてくるともいえるわけですよね。よく考えてみると。本当はね,ここで構造をよく考えてみないと納得できないんです。僕はフロント構造とかそういうこと言ってますけれど,人と人との関係,人と世界との関係がどういうことなのかということをはっきり見極めないと,常に新しく生きるということも実ははっきりしてこないんです。

 

(Nさん)そのことは分かっているですけれども…

 

 フロント構造は設計できない。自然に成り立つっていうね,成り立っているじゃないかってそれを掴む。

 

(Nさん)はい。そういうことと創造という言葉の繋がりが分からないんです。

 

 いきなりは。段々と分かっていただくよりしょうがない。全体に今書いただけだから。

 

(Nさん)自然とかあるいはキリスト教の場合には神の創造性というか?

創造性というものは自然の創造性というか?

 

 あのね,一番よく分かるのは無心になっちゃってもちゃんと生きているじゃないかっていう。そこからちゃんと色んなものが出てくるじゃないか,それが手がかりです。むしろ無心になった時にエゴイズムじゃないものが出てくる。たとえば清らかな心だとか真実を求める心だとか平和を求める心だとか,今はここに書いてないけれど,出てくるんですよ,自我中心性を捨てちゃってこういうプロセスを踏むと。

 

(Nさん)ああ,そういうものが出てくるということですか?

 

 そういうことです。

 

(Nさん)ああ,分かりました。

 

 つくるんなじゃいけどね。出てくるよって。まあ,それを掴むってことなんですね。それをいきなり言葉にしてさ,清らかな心になんなさいよーって言ったって,なれるもんじゃないですから。自然になるにはどうしたらいいかというと,こういうプロセスがありまっすよということ。

 清らかな心と無心とほとんど同じ意味ですけどね。僕は3つ挙げている。清らかな心とね,損をしてもいいから真実を求める,それから平和を求める。そういうの数え挙げていたら新約聖書のマタイ福音書に幸いなるかなあるでしょ。あれと一致している。心が清いものは幸いだ。その人は神を見るだろうとかね。

 

(Nさん)そういうものが自然に現れてくるという?

 

 だんだんそういうものが現れてくる。自然とは人為でないということ。自分で作らなくても現れてくる。それに対する「信」もあるわけですね。

 では,そうなったらだうなるんだよ,この世界幸福に生きられるかというとそれはまた別問題でしてね。(笑)損ばかりするかもしれません。

 

 まだそういうご質問ありますか?そういう質問ないとね,ただあれだけ書いたんじゃ分かんないっていうもの無理ないですから。

 

一足飛びに行こうったって無理だから,「省察」とね,それから「信」と,それから「瞑想」とやって,だんだんと分かってくる。なるほどねえと。仏教もそうだけどねイエスの言葉なんかもそうだけど。なるほどねと分かってくる。ついでに現代文明ってのもどこがおかしいかってのも見えてくる。

 

(Tさん)エゴイズムで作られている仮構世界とか価値の世界とかっていうものは歪められながらも本来は無心における創造性から発している共生への願いといったところに根差していたはずと言えるのかなあと。そこにエゴイズム的な「こうしたい」っていうとか「欲しい」とかが乗っかっていて,それのみでやっていると思い込んでいるから…

 

 まあ,そういうことなんですよね。旧約聖書の堕落の物語に,エバとアダムが禁断の知恵の木の実を食べたって書いてある。リンゴだったなんてどこにも書いてない。(笑)。善悪を知る知識の実を食べたってことは,たぶん人間が言葉を発明してエゴイズムに巻き込まれたってことだと僕は思ってますけどね。知恵がついたって決して悪いことじゃないんだけれども。知恵がついたのなら,それを克服しないとね。世界が滅びちゃう。

 

(Sさん)結局,人間が共同生活をするようになると,その共同生活を維持するためのルールってのができてきて,そのルールがいわゆる共同生活しているメンバーに対して全部共通して働かなくてですね,そこに価値観のでこぼこができちゃうと。

 

 でこぼこなくてもいいんですよ。そういうルールができてね,それが基準になるでしょ?そうするとルールを覚えてそれを守ればいいんだってなってくるじゃない。ルールの底にあるものを忘れる,無視すること。

 

(Sさん)それは普遍性っていうか,共同生活の…

 

 ええ,普遍性でもいいんですよ。こういうルールがあるからそれを学んでそれを守りましょう。それ何が悪いんだって。

 

(Sさん)ええ,ただ構成メンバーの個々の人間としては,全部固有の類似性ってのがありますよね。(ええ)ですから,そこといつも衝突するんじゃないですかね?

 

 いや,必ずしもそうじゃないんです。それは個と一般の衝突ってことであって話しが別なんですけどね。とにかく衝突はするんですよ。だからどうしてそんな衝突するんだって,ルールを守ればいいと。そうやっていると行動が「知」になっちゃうんで,「生」が失われるんです。僕が言ったレーベンっていうね。自然の「生」ってのがなくなっちゃうんです。自然の「生」なんかいらないと,知識だけあればいい。知性でコントロールしている。その知識に従ってやっている。そうすると自然や何かが失われる。失われると心の中に空虚ができましてね。それ満たそうとするんです。そうすると色んな変なことになってくる。まあはっきり言うとエゴイズムとニヒリズムってのはそこから出てくるんですけどね。

 

(Sさん)ただ神が人間がそういう律法みたいなのを作れないという前提で,たとえば「モーゼの十戒」のような…

 

 いやあ,あれは人間が作ったんですよ。歴史的にはっきりしてます。それも最初にあったんじゃないですよ。共同生活,倫理生活があって最後にまとめたの紀元前6世紀頃です。最初にあれがあって律法が展開したんじゃなくて,既にハムラビ法典なんか,中近東に色んな法生活があった。それをね,あとでまとめるんです。十戒,十か条に。そうしてできたのが十戒。あれ見ると都会生活っていうのが前提されています。家族生活とね。父母を敬えって家族があるわけでしょ。不倫がいけないなんて。それは家族がある。盗んじゃいけないっていうのは私有財産があるんです。それで,他人のものを欲しがっちゃいけないってのもそうですけれどね。私有財産があって。それでうそついちゃいけないって,偽りの証をたてちゃいけないって,つまり偽証しちゃいけないってことなんで,つまり裁判制度があるってことなんです。つまり共同生活があって私有財産があってね,家族があって,私有財産があって,国家があって。そういうのを十戒は前提としている。あれが最初にぽーんとモーゼの前に出で来るわけないじゃないですか。

 

(Sさん)じゃあ,人間がつくったと。

 

 人間がつくったって,そりゃあ人間がつくった。誰がつくたんだか知らないけど。人間がつくったわけ。

 

(Sさん)すると先程書かれた創造的空というのは,それとは違うわけですか?

 

 いや,それが倫理や法の面ではこういう風に現れてくるんです。人間生活の中で現れてくる。

 

(Sさん)それは人間が共同生活をやっていく上に,何か歪みを生ずるものが出てくるわけですか?

 

 だから言語がそう。

 

(Sさん)言語ですか。

 

 言語と自我。言語を使う自我。

 

(Sさん)でも言語を最初に使う意図というのは,そういう反作用がないという前提で…

 

 最初は反作用も何も全然考えてないですよ。

 

(Sさん)考えていない。ただ便利だから使う。

 

 ええ,便利。必要だからつくっていって,やったら弊害が出てきたってことです。弊害が出てきたから宗教って出てきたんですよね。たぶん。農村生活から都会生活になって,都会生活の中でね法とか言語とか道徳とか発達してくる。しかし都会生活の中で人間生活が乱れてきたから,こりゃだめだってんで宗教ができてきた。ヤスパースが枢軸時代っていってますけどね,紀元前6世紀くらいから紀元後2,3世紀にかけて色んな人が出てきて法と倫理だけではだめだってね精神革命やったっていうんですよ。たぶんそれあたってますよね。

 

(Sさん)でもそれはだめだと認識する能力というか,価値観は持っていたわけでしょう?

 

 もちろんそうですよ。気がついた人たちがこれじゃあだめ,何とかしなきゃいかんってんでつくった。つくったっていうより出てきたんでしょ。それぞれの宗教が。

 

(Sさん)でもそれは人間自身が気が付いてその解決策を見いだしたと。

 

 人によって違うんですよ。ソクラテスもブッダもイエスも孔子も,皆違うでしょ?それやっぱり独特の文化的な状況の中で,独特の個人がやったってことなんです。

 で,我々その伝統を受けていてね,それで現代はまたそれを考え直しているわけですけどね。

 

(Sさん)伝統とおっしゃるのは先生の場合キリスト教になるわけですね。

 

 僕はキリスト者です,元来。あとで哲学とか仏教とかに触れましたけれどね。

 

(Sさん)そりゃあ各々各人がそれを探して求めるものは皆違ってくるわけですね。

 

 必ずしも違わないと思うけれども,具体的には違うでしょうね。はい。

 

(Sさん)そうすると先生の布教の基盤は,そのキリスト教の教えに立脚しているということになるわけですか?

 

 ええ,そうです。仏教からも学びました。だから我々も今の状況の中で考え直して,伝統に従っていただけじゃあまた単なる自我になっちまうから自然ってのも発見しましょうって,やっているわけです。

 

(Sさん)僕は仏教は全く無知なんですけれども,先生の追究されてきたキリスト教の道と仏教の世界ってのはどっかで共通するものが…

 

 ああ,「無心」です。はっきりしてます。キリスト教と仏教。

 

(Sさん)無心が共通のものなんですか?

 

 ええ。そしてその無心の底に創造性があるんです。仏教はそれを法=ダルマっていう。キリスト教の方は神って言ったけどね。

 

(Sさん)ダルマと神はイコールなわけですか?

 

 いやー具体的には違うけれども。一つのことの違う見方だと思います。仏教は「自分とは何か」に集中する。キリスト教は共生の根拠を語る。

 

 そういうことなんで。今のまま行ったら人間滅んじゃう。だから何とかしなきゃいけないんだけど。何とかしなきゃいけないっていったって難しいですけどね。(笑)

 

 まだ質問ありますか。

 

(Bさん)質問ではないですけれどテレビでNHKスペシャルで何か月も前ですけれども脳が指令を出す前に各臓器からの働きかけが脳にいっていて,そこでまとめてコントロールセンターなんですか,でも脳から直接ではないっていう…

 

 しばらく前までの考え方は脳が全部身体に指令を出しているという。つまり人の生活では自我が自分を支配してるという。それを身体に置き換えると脳が身体を支配しているということになる。そういうことになるでしょ?だけどよく調べてみるとそうじゃないんです。脳は身体の一部なんで情報を処理して何かを選ぶっていうことをやっている。脳が独立して身体を支配しているんじゃあない。これ,昔から宗教的には誰でも知っているんですけどね。医学がそれを何て言うか証明してくれたっていうか,大変結構な話しです。で,今の医学は臓器だけじゃなくって細胞レベルでコミュニケーションやっているのね。伝達物質って言ったかな?細胞レベルで出している。細胞は何十兆ってあるんですよ。それがそういう伝達物質出してお互いにコントロールしているんだってね。だからタンパク質やなんか研究している研究者って超絶的な神秘だってね。何十兆の細胞がそれぞれ働いていて一つの身体ができている。そんな仕組みがまだやっと分かりかけてきたに過ぎないって言ってますけどね。それが「自然」なんですね。人為じゃないんです。それが自然なんです。

 

(Bさん)科学と宗教を対立させる考え方・風潮が昔ありましたけど,それがだんだんナンセンスってことに…

 

 両者は同じ平面じゃないから。僕は矛盾しないと思ってます。全然矛盾しない。

 科学ってのは外から見ているので。宗教ってのは内側から理解しているんで。外から見れば脳細胞だけれど内側から自覚すれば心になる。思考は脳細胞の活動だから心なんて存在しないとは誰も言わないよね。そりゃあ矛盾しない。宗教ってのは内側から見ている。それを同じレベルで言うから間違える。宗教言語を客観的事実と考えたら宗教が負けるに決まっている。神様が地震を起こすなんて言ったって,そういうレベルでやったらおしまいです。

 

(Bさん)AIにいかに哲学を入れていくかっていうのが…

 

 はい。AIって「生」生きるってことについては絶対無力。自覚については全く無力。つまり客観的情報処理ならAIにやってもらえるけど,僕の自覚ってのはAIに代行してもらえない。自分でやるよりしょうがない。これから先どうなるか知らないけどね。今の所,AIってのは客観的な情報処理と行動への変換の話しだから。自覚とはまるっきり無縁だな。

 

(Bさん)逆に恐ろしい事でもあるんだなと思っていますけど。

 

 恐ろしいことと言えば,ディープラーニングって奴があるじゃないですか?ディープラーニングってただの計算機じゃないんですよね。学習する機械なんですよ。勝手に学習するんですよね。もちろんさせるんだけど。学習して,コンピュータつくった人にも分からないことをするんだって。たとえば将棋やらせるでしょ?で物凄い良い手思いつくじゃないですか?どういうプロセスでそこに思い至ったかって作った人にも分からない。ちょっと困るんでね,それ。

 ご神託と同じことになっちゃう。昔,自分たちの判断力に自信がないものだから神様にお伺いって「ご神託」やってた。「ご神託」は,どういうプロセスで出てきたことだか分からない。あんまりあてにならないからってなくなっちゃったんだけど。コンピュータがこういう答え出したって,どういうプロセスでその答えが出たかわからなくいわば,ご神託同然になっちゃう。どういうプロセスで出たか分かんないけれど,とにかくこう出たんだから,それに従ってやろうということになる。そういう意味ではご神託とたいして変わらない。それじゃあ困るからなあ,やっぱりプロセスを明らかにしてもらいたいですよね。どうして,こういう答え出したのか。だからそれ行き過ぎると本当にコンピュータに支配されることになる。

 だからレーベンって「生」とか「自覚」って内側から見たものだから,コンピュータと自然科学とね無縁じゃないけど,自然科学的に説明できるってことじゃない。もちろん無縁じゃないですよ。頭の具合がおかしくなったって,外から見れば脳卒中だとか認知症だとかって色々診断できますから無縁じゃないけどね。だけど,脳細胞をいじれば心を完全にコントロールできるってものじゃあたぶんないと思います。そもそも自然科学ってものをつくったのも人間の心なんですからね。心っていうかメンタリティーっていうか。

 

 ちょっと話しがそれちゃった。まだ10分くらいあるから,ちょっと瞑想やりましょうか。

 

(瞑想タイム 10分程)おわり

2019年11月21日第8回省察と瞑想の会 八木誠一先生講義録(中)

 

 もう一つ本質的なことを。本当はね,「生」って具体的に言うと「共生」なんです。だけどその前にね,とにかく情報で生きている自我を捨てることなんで。捨てるっていうのは自分の知識とか全部なんで。自分が何であるとか何になりたいとか,あるいはこの自分だけじゃなく世界についても未来についても過去についても色んなことを知って考えていますから。それを一旦全部捨てちゃう。そうすると「生」ってのが実は自然なんだってことがよーく分かってくる。では自然ってのは何かっていうと,まずは無心になるんですよね。あーなろう,こうなろうと,あーして欲しいこうして欲しい,ああいう風になろうこういう風になろう,それが無いって言う。

 なんで何にも無いっていうのが,ただのニヒルじゃないか?ニヒルじゃないんですよね。その底にね,僕は「創造的空」って言っていますけれども,いきなりそこに持ってくると間違う。まず無心。何にもないのが,実はその底に生かすものがあるんだ。そこから色んな方向に発展してくるんです。だからまずは何にも無い退屈なところ,一回そこに行かないと新しいものが出てこない。実はね,ここにやっぱり「省察」ってものがある。それだけじゃなくって,「自然」って一つの働きですから,やっぱりね,自然ってのがあるんだっていう「信頼」ってのかな,それが必要。「自然」って「任せる」ってことだから。自力で頑張るのではなくて,全て委ねる。任せるって自然にそうなるってことの裏側だと考えてください。任せるって,とにかくそういうものがあるんだって信用してなきゃ起こりませんからね。やっぱりここに「信」ってのがあるし,それから「知」から「自然」に行くについちゃあ「省察」っていう,この前やってきた自我に関する省察ですよね。そういうのがあるんで,それを頭のどこかに置いといて,それで自然,無心,これが分かってくる。いきなり今やれって言ったって無理だけど,こういうプロセスになるんです。しかしただこれだけだと単純過ぎる。「生」ってのは「共生」なんだ,「生」」があり「人間の世界」があり,世界を超えたものがある。結局ここに行くんだけれども,共生というともっと具体的になります。

 

(Tさん)それを行おうと努力をしてしまうと,またそれが努力として「知」になってしまうところが難しいところだなあと思いますよね。

 

 そうなんです。はい。

 

(Tさん)やっぱり自覚しなければいけないっていうところになってしまうと,そこに行かないっていう。

 

 そういうことなんです。人為は妨げになりますから,むしろそういうの放り出して捨てちゃうってね。

 

(Sさん)先生,「信」が成り立つ所以っていうのはどういう風に信じると…

  

 分かったらなるほどとうなづく。だけど分からないうちはしょうがないですよ。まずはこんなことがあるって人に教えてもらうんです,まず。皆そうなんです。こういうことがありますよって。

 

(Sさん)それは本当の「信」じゃないわけですよね?

 

 いや,それ「信」っていう。

 

(Sさん)信じてないのにも関わらず「信」を行うということになる訳ですか?

 

 「信」ってのはそういうことなんです。だから,知らない時はここ真っ直ぐ行くと東京という街がありますよって教えてもらう。知っている人は知っているんだから。行ったことないから分からないけど,信用して電車に乗ってみたらちゃんとあったって。極めて単純な話です。そういうお話です。

 

(Sさん)それが「信」の根拠になる訳ですか?信じるということの。

 

 根拠っていうか「信」ってそういうもんですよね。「自然」や「無心」って,これがあるよってまずは教えてもらう。結局ここに行くんですけどね。

 

(Sさん)「信」を説いている人ってのは「信」の境地に行っちゃっているわけですか?

 

 信の境地って,なるほど確かにあるわいってわかるわけ。

 

(Sさん)んー。

 

 だから知っている人はあるよって言うんだけど,知らない人はなるほどと思えないから,そうかな,じゃあやってみようと。皆代々そうやってきたわけです。だから最初にみつけた人は偉いですよね,はい。最初にみつけたのは,お釈迦様だとかイエスだとか,そういうことになっちゃう。

 

(Sさん)要するにそういう人は次には布教ということになりますよね。

 

 だから布教したんです。あとの人たちはそれなるほどって。まあ「信」だけじゃないんです。理性だってそうなんです。理性に目覚めるっていうのもね,最初に目覚めた人が理性的に考えることができるよって言い出した。それでやってみるとなるほどできるってんでね。それが認知されると文化ができてくる。

 

(Sさん)そうするとAさんとBさんが「信」を説いた場合に,同じ「信」でも違う訳ですか?人によって説かれる「信」が。

 

 そりゃあ違うかもしれませんよね,内容は。

 

(Sさん)そうすると先生のおっしゃっている「信」ってのは一つじゃなくって各人いろいろ持っているわけですか?

 

 何を?

 

(Sさん)「信」を。

 

 やってみりゃ,なるほどという。

 

(Sさん)現れてくるわけですか?

 

 はい。

 

(Sさん)それ現れてこない間は信じていない?

 

 やっぱり信じ続ける。あるに違いないけど分からない。分からないけどあるに違いないっていう。はい。

 宗教だけじゃないですよ。文化は皆そうですよ。今は分からないけど,何かがきっとある,そういう意味の「信」がなかればそもそも勉強する気にならないじゃないですか。

 

(Aさん)先生いいですか?あの「無心」と「集中」あるいは「集中力」との関係って,「集中」と「無心」との関係っていうんでしょうか。瞑想中と集中力とか集中の関係。何ていうんでしょう…

 

 なるほど。あのね,集中はある意味で無心じゃないんですよね。

 

(Aさん)でも気が散っちゃうと…

 

 そう。気が散っちゃうと色んなものが出てくるからそれ抑えているでしょ?だから,それ抑えようとすると無心にならない。自然ってのは抑えないでも自然に出てくる。

 

(Aさん)でも,気が散っている状態じゃないですよね?

 

 気が散っている状態じゃなくって出てくるわけなんです。

 

(Aさん)でも集中,意識的な集中は違いますよね?

 

 集中ではなくて,むしろ静かな社会なんです。

 

(Aさん)でも何等かの集中はないと…

 

 最初はしょうがないんです。「具体的な何か」にではなく,形のない方へと集中します。はい。でないと意識がそっち向かないから。そりゃあ最初は集中するんです。

 

(Aさん)ということは健康とかある程度体力がなかったりするとやっぱりなかなか難しかったりする?

 

 だから病人にはちょっと瞑想って無理だと思うね。

 

(Aさん)あるいはすごく心配なことがあるとか。

 

 心配事があるとだいたい自然とか無心とかになれないから。難しいんですよ。心配だから無心になりたいと思うのね。心配ばかりしてると嫌だからね。無心になりたいなあと思うけど,心配事があるとなかなか無心になれないですよね。

 

(Aさん)嬉しすぎても…ルンルンってしていると(笑)

 

 だから一遍にというよりも,何度もやっているうちに何ていうか,慣れてくるというか。今こうプロセスを一遍に語っちゃったんで。実はこれ行ったり来たり行ったり来たりしてやっていくものなので。

 それで人間に備わっている創造性だけど実はこれからよーく考えてみると,これは各人を超えたものに備わっている創造性だってことがだんだん見えてくるんです。そうすると宗教になる。まあ哲学って言ってもいいけどね。宗教なんです。

 だからまあ,難しいといえば難しい。

 

(Sさん)先生書かれている「信」というのは宗教上の「信」のことなんですか?

 

 そうなります,結局は。

 

(Sさん)うん。はい。

 

 結局は宗教にまで深まっていきます。では何でこんなことやるんだ。まあ,俺ってこういうもんかってことが分かるってただそれだけのこと。人間ってこういうもんかって。分かったからどうなのよと言われると困るけどね。(笑)はい。ああ,人間って世界ってこういうもんなのか。

 

講義録(下)に続く

2019年11月21日第8回省察と瞑想の会 八木誠一先生講義録(上)

 

「自覚」っていうと実はふつうより深いレベルのことを言いたいのです。一般的には自分が何であるか,何をしているのか,どういう状態にあるのか,自分で気が付いているという,それを「自覚」って言うんです。ところで「知る」って言うとまずは認識ですよね,主観として客観的な事実を認識するという,これは普通の「知」ですよね。それから自分が接して居る人を「理解」するという,他者を理解するという「知」。それから自分自身に気が付くという「自覚」と,3つある訳ですが,宗教の場合は,特にキリスト教と仏教では,「自覚」が大事になってくる訳です。

 それで「自我」の自覚のことを普通「自意識」って言ってますが,人間ってそれだけのもんじゃない。人間ってのは「知」でなく「生」だ。「頭」ではなくて「身体」なんだ。哲学史的にこれをはっきり言ったのはニーチェでしてね,ニーチェが当時の文明を批判して,「生」を「知」に変えちゃったという。それはギリシャ時代から始まっているんだって,非常に深い批判をやったんです。ただ彼が「生」と言った場合に,その「生」が純粋な「生」ではなく,エゴイズムに絡めとられている生だった。だからニーチェは弱者のエゴイズムを非常に鋭く指摘したんですけれども,強者のエゴイズムは「生」の一属性だとして肯定しちゃったから,ニーチェの哲学自体もおかしくなったし,後からナチに担がれたりなんかすることにもなったんです。

ニーチェって読んだことある?名前は知ってるでしょ?ニーチェっていうと超人とかね。Übermensch,英語にするとSupermanなんです。スーパーマンっていうと今では意味がまるっきり違っちゃっている。Übermenschって言った場合は生を深く自覚した人のことで,丸っきり違った意味なんです。「超人」とか「神の死」とか「無意味の永劫回帰」とか「力への意志」とか,そういう何て言うかな,思想の中身ばかり紹介されているけれども,本当はそうじゃないんです。彼は生の「直覚」を持っているんですよね。これに気が付いている人があんまり居ないんで。「知」じゃなくって,生きるってことの「直覚」持っていた。そこから語っているもんだから,「生」の方が「理性」より深いという,そういうことを言う。そっちの方はあんまり後代に影響を与えていないようにも思われるんです。それは彼の「生」理解がおかしかったっていうせいもあるんですけれども。そこの所を正す,そういう必要があるんですね。

人間って「知」じゃなくって,つまり「情報」がすべてではなくって,生きていることだ。これに気が付くっていうにはどうしたらいいか?ここで私は「信」とか「省察」とか「瞑想」とか言ってますけれども,やっぱり「省察」っていうものが非常に必要なんです。だから一意的な情報によって生きているのが人間じゃないんでね。人間って本当はそうじゃない。「私は身体だ」っていうんじゃなくって,むしろ「この身体が私だ」と。こういう理解っていうか,自覚っていうか,直覚っていうか。これね,「私が身体だ」っていうのと「この身体が私だ」っていうのとどう違います?同じですか?「私が身体だ」っていうのと「この身体が私だ」っていうのと,同じ?違う?どうですか?

 

(Tさん)違いますよね。

 

どう違う?

 

(Tさん)「私が身体」になってくると,まず最初に私が存在していることが前提となって語ってしまっているので…

 

そういうこと!

 

(Tさん)…もう既に身体も私の所有の一部になってしまっている。

 

はっきり言うとそういうことなんですよ。「私が身体だ」っていうと「私」っていうのがある訳ですよね。既に他のものから区別された「私」が。それでその「私」について「身体だ」といっているんで,だから間違っちゃいないんですけどね。そうじゃなくって「この身体が私だ」っていうと身体が主語になっている。まず「身体」があるんです。この「身体」。それが私として働いているってことだから,違うんです。

 

(Sさん)それは秩序だって整理される前の段階ですか?

 

初めはっきりしていない段階で,だんだんはっきりしてくるんですね。

 

(Sさん)整理されて?

 

はっきりしてくるについて幾つか段階がありまして,まずこれね。私,「知」じゃない,  「生」だ。「生」ってあんまり日本語で使わないんでね。ドイツ語だったらレーベン,レーベンってよく言うし。フランス語だったらラ・ヴィ。これもよく使われてるけどね。ライフって言葉もよく。ただライフっていうとちょっとレーベンと意味がちょっと違うけどね。日本語だとあんまり「生」って言葉を使わない。ちょっと困る。命っていうとまた意味が限定されちゃうんでね。命って言った方が近いんですけどね。

 つまり,情報によって生きている自我,それを生を「知」に解消したと言っているんで,そうじゃないんだ。生の方が深い。私は「生」なんだ。「知」っていうのはその一部分なんですね。よく僕は言っているんですけどね,自我が身体を支配すると考えられている。医学的に脳が中心で脳が身体を支配していると考えられていたんだけれども,最近だんだんとそうじゃない,脳ってのは身体の一部なんだということがはっきりしてきているらしいですけれど。そりゃあ昔からはっきりしていることなんでね,宗教では。

 自我っていうのは一つの機能であって,状況を判断して選択するっていう機能をもっているんで,自我が身体を支配するんじゃない。じゃあ,これにどうやったら気が付けるのか?

 生きているという自覚って,その自覚の内容はなんなのか?問題は「生」だっていっているときのその内容ですよね。まあ普通生きるって言うとね,生き物っていうと,個体保存と種族保存が第一だとよく言いますよね。で個体を保存したり種族を保存したりするについちゃあ闘争ってのがあるから,だから個体保存の本能,種族保存の本能,それから闘争本能。本能っていうと代表的なのがこういうふうに考えられますけれども,じゃあ生とはその本能のことなのか?

 で,本能って何かっていうと,元来は学習しないで生きていける能力のことなんで,魚とか昆虫とかは学習しないでもちゃんと生きていけるんです。だけど高等動物になるとやっぱりそうじゃない。多かれ少なかれ生まれてから学習してね,それではじめて生きていけるようになるんで,人間がその学習の時間が長いんですけれどね。だから,こう「生」って言った場合,必ずしも本能のことじゃないし,人間の場合は純粋な本能ってのはおそらくないんでしょう。文化に影響されすぎている。

 食欲って本能ですよね?だけど今日は寿司食いたいなんてのは本能じゃない。文化です。(笑)だからそういう意味で人間の本能ってのは随分違ったものになっていると思います。じゃあ欲望かっていうと普通ねそうも考えられるんですよね。「生」の属性って欲望だって。ところが欲望ってのはよくよく考えてみると今まで一生懸命話してきたんですが,エゴイズムと結びついているんです。純粋な本能的欲望ってのはまずないんです。エゴイズムが欲望を貪欲に変えているっていう,説明したの覚えてらっしゃると思いますけどね。だからそういうことじゃない。じゃあどういうことなのか。それはやっぱりやさしくないんですけど。

 生きてるっていう徴は,まず感覚ですね。ところがその感覚自体がかなり変わっちゃっているんでね。どういうことかっていうと,感覚っていった場合,たとえば目で見た場合,視覚ですよね。視覚っていった場合には知識が入っちゃっている。見た相手が何かっていう知識が入っちゃっているから,だから純粋な視覚だけ取り出すってのは非常に難しい。聴覚も,こっちの方が純粋感覚に近いけれども,やっぱり何の音っていう知識が入ってますから。で,おそらく,味覚もそうですけどね,触覚が一番オリジナルな感覚に近い。だから僕は触覚で感覚ってどういうことかっていう実験をやりましたけれども。そういう「知」,「知性」,「知識」とは区別される純粋の感覚,それを捕まえないといけない。そこに第一の非常に難しい問題があるんです。それね,直接経験って知識を交えない感覚,経験のことです。あるんですよね,これ。これがはっきししていないと,「生」ってのが純粋の「生」じゃなくって知識を含んだ生になっちゃうから,だからニーチェの場合なんかもそうなんですよね。レーベンの自覚って何かって言ってたけれども,その中にやっぱり知識とか欲望とかいうのが入っちゃっている。で,直接経験ってのは知識を交えない感覚のことだ,まずはね。だけど,いきなりそれやれって言ったって非常に難しい。まあ,瞑想ってのは取りあえずそのための方法なんです。自我が目まぐるしく働いていますから,瞑想でそれを静めて押さえてそれで純粋な感覚が現前するように持って行くんだけれども,なかなかそれが難しい。やっぱり瞑想ってのは雑念が湧いてきちゃって純粋な感覚にならないんですよ。じゃあいったいそれどうしたらいいかって,それあの普通は瞑想中に雑念に巻き込まれなければいいんだと,気が付きゃあ無くなるからと。本当なんです。雑念が湧いてきたら,湧いてきたなって気が付くと無くなるで。雑念に巻き込まれないようにすればいいんですけどね。それにしても色々湧いてくるんで,それでそういう時にどうしたらいいのか?逆にそれ利用する手ないのか?やっぱりある意味であるんですよね。自然って奴ね。自ずからっていう自然。逆にそれを使うんだ。「自然」って自ずから然るってこれ「人為」の反対です。まず身体の自然を掴むことだ。

 それから呼吸ってのもそうなんです。呼吸ってのも自然ですから。ただ呼吸ってのは意識的に調整することができるんです。気が付かないと自然に呼吸しているけれど,コントロールすることもできるんです。だから逆にそれを利用して人間の自然と意識とが一つになる点があるんだと,そこになれるために呼吸に注目するということも非常に大事なんです。

 だけど要はそういう色んなことがあるけれども,知識を入れない純粋な感覚がある。純粋な感覚ってのは,たとえば視覚だけに注目してね,見ようと思わなくても見えているっていう,何を見ているってんじゃないけど見えているってね,その見えているっていう方に意識を集中するとか。聞こえるもそうです。それもそうなんだけど,むしろそれ全部含めて,ある意味でこれが非常に大事だ。全身の感覚です。生きているなあって,なるほど生きているなという,たぶんそれが一番純粋な生きている感覚に近いんじゃないかと思う。あんまり知識入ってないですからね。生きてるなーっていう身体感覚。身体感覚もねあんまり自我が強過ぎするとなくなっちゃっているんでね。だからその身体感覚を回復することが必要なんですけれども,自我が静まって自我が身体の一部分に復帰すると身体感覚が蘇ってきてまずこれが一つの手がかりになります。

 

(Sさん)それは倫理的な倫理観とかは関係ない?

 

 まずは関係がない。倫理観ってのは自我の属性だから。一種の情報ですからね倫理は。ただ基本的な倫理的感覚ってのがあって,それは,私が今ここで言っている生きているってことは,一緒に生きているってことだから,一緒に生きているって方で倫理的感覚が出てくる。

 

(Sさん)その普遍性ってのは担保される?

 

 普遍性ってのは直接には確かめられません。その場合はね,自分にとって必然的に起こってくることはね,誰にとっても可能なことだっていう原則がありましてね。

 

(Sさん)それは属性みたいなものですか?

 

 ええ,僕自身にとって必然的に起こって来ることは,誰にとっても可能なことだっていう原則,これはあんまりそれ間違っていない。

 

 それは一つの手がかりになるんで,だけど,知ってますこの感覚?分かります?

 

(Sさん)それはニーチェの言う生の感覚と似ている?

 

 まあニーチェに似ていると思いますよ。はい。ただニーチェの場合もっと知的な意志が入ってきちゃうんで。

 

(Aさん)生きている感覚っていうのと,生かされているっていう感覚はまたちょっと違うんですか?

 

 ええ,違うんです。違うんですけれども,生かされているっていうとある意味で判断が入っちゃっている。

 

(Aさん)ほー,判断?

 

 判断。知識っていうか,判断っていうか。自我による判断ですね。

 

(Aさん)そうですか。

 

 ね。認識が入っている。

 

(Aさん)一瞬でも?

 

 ただ生きてるってんだったら全然判断が入ってないね。感覚だけで。

 

(Aさん)私にとって身体ですら神秘なものですよね?全部を分かっているわけじゃないから。

 

 もちろんそうです。

 

(Aさん)その神秘をいろいろ…奥にある超越との…超越と生きてるって自分で感じることとの,そこら辺がちょっと分からない。

 

 それはね,順々にお話しようと思っていたけれども,段階がありましてね。自覚にいたるプロセスと,自覚そのものと,自覚を深めていくプロセスと。で今あなたがおっしゃったのは,深めていく方に近い。今言っているのは深める前のただ単純な事実です。だから,生かされているってのは自覚が深まっていく一段階でしてね。はい。

 

(Aさん)先生が昔書いてらっしゃったように,天がしからしめるゆえに自ずとなるって

 

「天然自然」。それを掴めばいいんだっていう,それですごい納得したんですけれど。私そこから抜けられなくって結局今そこに戻っていて…

 

 天然ってのは一つの判断になっているから。もちろんそこまで行くんですよ結局は。行くんだけれども途中で入れない方がいいんで,純粋に感覚だけっていう。じゃないと生かされているとか,天っていう観念自体がね,通俗的なものになって…

 

(Aさん)そこが直接経験のスタート?

 

 まあ,スタートといえばスタート。知から生への転換点。

 

(Aさん)それはキリスト者に多いと思うんですが,天がしからしめるっていうことに,すごく自我が溶かされるっていうか砕かれるポイントがあって,まあ判断かちょっと分からないんですけれど,確かに人生変わっちゃうっていうことがありますよね。

 

 ええ。ただ,伝統的なクリスチャンの場合は,経験が神様っていうイメージと結びついちゃっていてね,こんなことやると神様に怒られるぞっていう,それがどっか入ってくることがあるんで。

 

(Aさん)そうですかねえ?

 

 なきゃいいのよ。でも普通やってる。神様って他者があって,見張ってて,僕が悪いことするとこらって怒られる。

 

(Aさん)一人一人違いますよね。それは先生の個人的な考えじゃないんですか?

 

 だいたいそれが多いんですよ。特に子供っていうかな。習いたてっていうかね。現代だとそうじゃないかもしれないけれども,少し前の書いたものだと非常にはっきりしています。つまりまず他律的他者ね。いきなり教えられた他者が出てきて,神様っていう。

 だからそれはそれでいいんだけれども,いきなり神様ってのが出てくると,どうして出てくるんだっていう疑問が出て来ましてね。何を根拠に神様っていうんだって。だからそうじゃなくって,底から掘り起こしていくっていう。自覚を深めていくと「神」といえる現実があるんだって。いわゆる「神」とはまるで違うけど。そっちの方が確かだと思っている。だから直接経験って難しいんですよ。いいかな直接経験?

 

(Aさん)分かるかどうかですか?(分かる?)ええ,さっきの生の実感はありますね。

 

 そうですか。非常に結構です。

 

(Aさん)分かるように思うんですが,それを伝えられない。

 

 たぶんそういうことだと思うんです。

 

(Bさん)一つ。自分が大きな病気とかしてそれが治った時に身体感覚ってのが,まあ生かされているって気持もなくはないんですけれども,そうするとやはり生きているという…

 

 健康感っていうか,そうなんですよ。健康感ってのは,中心っていうか,あるんですよ。だから病気していると,頭痛とか身体感覚に入ってきちゃうからちょっと困るんだけど,なるべく病気がない健康な身体感覚ってのが,身体がぽかぽか温かいってのから始まってね。

 

(Bさん)もう一つは,こういう言葉を使っていいのか分からないですけれども,知的障害者の方で非常に生き方が真っ直ぐな方,そういうお子さんを育てているご家庭はよそから見ると,あそこの家は大変だとねと一般的にそうなりますよね,だけどそこで一緒に暮らしている両親が逆にその子を育てることによって普通では経験し得ないような素晴らしい宝物をいただいたという気持になるご家庭が非常に(そうじゃない家もあるけど)

 

 僕は社会福祉の人からよく聞くんですけどね,なかなかそうじゃない。そうじゃなくってむしろ普通の人だったら恥ずかしいから抑えることをもろに出しちゃうすごいエゴイストがいる。

 そういう人ももちろん居るでしょ。居るんだけど全部ってわけではない。純粋な人もいるんでしょう。でもそれは知的障害だから純粋だっていうんじゃないと思う。そういう人なんだ,元来。

 

 それでね,やっぱり瞑想が一番いいんです。まずは直接経験なんて言わないで自然な身体感覚ですよね。身体がぽかぽか温かいっていうのでも,健康に生きているっていうのでも,何でもいいけれどもね,その中に視覚とか聴覚とか触覚とかがだんだんと入ってくるんでね。そこで気がつくと,私が世界の中で他者と一緒に生きている,他者なしに自分はいない,ということがわかってくるんです。

 実は予期しちゃいけないんですよ。何かこうなるに違いないと思ってそれを実現させようとすると違っちゃうんで。だから,そういう予期なしに。だから自然をつかめって。予期しちゃいけないんだ。予期する必要がない。予期しないでも自然に。だから今のこの形でいいから,10分か15分か,僕ちょっと後ろの方で休ませてもらって,(瞑想を)はい始めてください。

 

(瞑想タイム)約18分  講義録(中)に続く